2010-12-26 16:55:10

2010年降誕祭・深夜ミサ:教皇「神と共に愛する人となろう」


教皇ベネディクト16世は、バチカンで24日夜、降誕祭の深夜ミサをとり行われた。

ローマでは冷たい雨が降りしきる夜となったが、聖ペトロ大聖堂は、教皇と共に主の降誕を迎えようと集った世界各国の巡礼者およそ1万人でいっぱいになった。

システィーナ礼拝堂聖歌隊による美しい合唱が響く中、赤と白の花で飾られた中央祭壇で、教皇によるミサが荘厳に捧げられた。

2010年降誕祭深夜ミサにおける教皇の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
 
「あなたは私の子、今日私はあなたを生んだ」
この詩編第2番の言葉をもって、降誕ミサは始まります。この言葉は、もともとイスラエルの王の戴冠の儀式の言葉でした。王そのものは他の人々と同じ単なる一人の人間ですが、この儀式によって、神の側から、いわば一種の養子縁組が行われ、正式な王として「神の子」となるのでした。神はこの一人の人間に新たな存在を授与し、自分自身の存在の中に王をひきつけるのです。
さきほど朗読されたイザヤ預言者の言葉は、よりはっきりと言っています「私たちのために幼子が生まれた。私たちに一人の子が与えられた。彼の双肩には権力がある」(9,5)。
王の公的就任式は、あたかも新しい誕生のようなものです。神の決定によって新たに生まれたもののように、神から生まれた幼子のように、王は民の希望そのものとなるのです。彼の双肩には未来がかかっています。彼はまた平和の約束の保持者でもあります。この預言の言葉は、ベツレヘムの夜に現実となりました。そうです、まさしく生まれたばかりのこの幼子の双肩には、権力があるのです。この幼子において、神がこの世で新たに打ち立てた、まったく新しい王権が出現しました。この幼子は、本当に神から生まれました。彼は人性を神性に結びつける神の永遠のみ言葉です。イザヤ預言者の王の戴冠式の賛歌で歌われる「優れた助言者」「力強い神」「永遠の御父」「平和の君」(9,5)などのすべての崇高なタイトルは、この幼子に文字通り冠されるものです。 この王は、この世の識者に属するいかなる助言者も必要としません。彼は自分自身の中に神の上智と知識を備えています。まさしく幼子の弱さそのものの中で、彼自身が力ある神です。こうしてこの世の傲慢な権力者たちの前で、神の力そのものを私たちに示すのです。

イスラエルの王たちの戴冠の儀式は、実は常に単なる希望の儀式でしかありませんでした。いかなる王も実際に言われている言葉にふさわしい者ではありませんでした。これらの王たちにおいては、すべての言葉は、未来に対する淡い希望のようなものでした。しかし、ベツレヘムの夜に始まった言葉の実現は、いにしえの期待をはるかに凌駕するほど偉大で、同時に慎ましやかなものでした。それがはるかに偉大なのは、誕生したこの幼子が本当に神の子であり、「神からの神」「光よりの光」「創られずして生まれたお方」「父なる神とまったく同じ本性をもつ神」だったからです。
神と人との間に横たわる無限の隔たりは、取り去られました。神が低いところに身をかがめただけではなく、詩編も歌っているように、神の子は実際に「降りてこられ」、すべての人々をご自分にひきつけるために、私たちの一人となることによって、この世に入られました。この幼子は実に「人と共におられる神」「インマヌエル」です。彼の王国はこの世の隅々にまでいきわたります。聖なる聖体の秘跡の普遍的な広がりにおいて、彼は真の意味で平和の島々を打ちたてました。どこであれ彼が来られるところには平和、神そのものである平和があるのです。この幼子は、人々の中に愛の光を灯し、権力の横暴に立ち向かう力をもたらしました。いつの時代にも、彼はその王国を人々の心に中に築き上げます。しかし、悪の力がまだ完全に打ち砕かれていないのも事実です。今日もなお血なまぐさい紛争に向かう兵士たちの足音が聞こえてきます(イザヤ 9,3s)。
今夜、神が近づいてこられる喜びを私たちは味わいます。感謝を捧げましょう。なぜなら神は幼子として、私たちの手の中に来られ、私たちの愛を乞い、私たちの心の中にその平和を注いでくださいます。 しかし、この喜びは一つの祈りでもあります。主よ、あなたの約束を完全に実現してください、そして悪の力を打ち砕いてください。「平和はもう終わることがないだろう」(イザヤ9,6)と言う約束を成就してください。あなたの愛ゆえに感謝します。あなたの力を示してください。世界にあなたの真理、あなたの愛の支配を実現してください。正義と愛と平和の王国を樹立してください。

「マリアは初子を生んだ」(ルカ 2,7)
福音記者聖ルカは幼子を「初子」と呼んでいます。旧約聖書の中で初子という時、それは多くの兄弟の中の第一番目の子と言う意味ではありません。「初子」と言う言葉は、特別な尊厳を表す一種のタイトルのような言葉です。後に兄弟姉妹たちが続くかどうかを意味するわけではないのです。
このように、出エジプト記ではイスラエルは神から「私の初子」と呼ばれています。そして、このことによって、彼が神から特別に選ばれたこと、比類ないその尊厳、父なる神の特別な寵愛を受けたことを表しています。
初代教会は、イエスにおいてこの言葉が深い新しい意味を帯びたことを認識していました。すなわち、彼の中にイスラエルにされた約束がすべて引き継がれたのです。ヘブライ人への手紙もこのようにして、イエスを、旧約における長い準備期間の後に神がこの世に送られる「初子」と呼んでいます(ヘブライ 1,5-7)。
「初子」は特別な意味で神に属しています。ですから、多くの宗教でもそうであるように、「初子」は特別に神に捧げられ、そして代替犠牲によって贖い返されるべき存在です。聖ルカも、このことを幼子イエスの神殿への奉献の出来事の中で書き記しています。「初子」は特別に神に属するものですから、神に捧げられるべき存在だと言えましょう。十字架上でのイエスの犠牲において、「初子」の犠牲は成就されます。イエスは自分自身において人類を神に奉献し、神がすべての人にとってすべてであるように人を神に一致させます。聖パウロはコロサイとエフェゾの教会に宛てた手紙の中で、イエスの「初子」としての概念をよりくわしく説明しています。これらの手紙は、イエスを 「創造の初子」であると言っています。イエスは、神が人間を創造した時に抱いた理想通りの、真の人間だということです。人間は神の似姿です。
さらに、彼は死者のうちからの「初子」でもあったと手紙は言っています。復活においてイエスは私たちすべてのために死の壁を打ち砕きました。そして、神との交わりにおける永遠の生命の世界を、人間に開いてくれたのです。イエスは多くの兄弟たちの「初子」です。そうです。イエスは多くの兄弟たちの第一子として、後に続く私たちのために、神との交わりを開いてくれたのです。
イエスは真の兄弟関係を創ります。カインやアベル、ロムルスやレムスのような、罪によって乱された兄弟関係ではなく、そこでは皆が神の家族となる新しい兄弟関係を創ります。この新しい家族は、聖マリアが「初子」を布でくるみ、まぶねに横たえたその時に始まるのです。

祈りましょう。
「多くの兄弟たちの初子として生まれることを望まれた主イエスよ、私たちを真の兄弟としてください。私たちがあなたと同じような者となれるようお助けください。私を必要としている他者の中に、苦しむ人々の中に、見捨てられた人々の中に、すべての人々の中にあなたの御顔を認めることができるよう、また一つの家族、あなたの家族となるために、兄弟姉妹としてあなたと共に生きることができるようお助けください。」

降誕の福音は最後に「天のいと高きところには神に栄光、地においては神の御心にかなう人々に平安」(Lc 2,14)と言い、神を賛美する天使たちの大群について語っています。
教会は、聖なる降誕の夜に天使たちが歌ったこの賛美を、神の栄光を喜び寿ぐ賛歌として受け継ぎました。
「あなたの無限の栄光のゆえに私たちは感謝を捧げます」。この夜、私たちにとって目に見える形を取ったその美のゆえに、偉大さのゆえに、神の愛のゆえに、私たちは心からの感謝を捧げます。
神の輝き、美しさはその有益性など気にすることなしに、私たちを喜びで満たしてくれます。すべての美のもとである神の栄光は、私たちの中に驚愕の念と喜びを爆発させます。神を見る者は喜びで満たされます。そしてこの夜、私たちは皆、神の光の何かを見るのです。

聖なる夜、天使たちのメッセージは人間についても語っています。「神が愛される人々には平和」。
私たちが典礼の中で使用する聖ヒエロニムスのラテン語訳は少し異なります。彼は「善意の人々には平和と」と訳しています。この「善意の人々」と言う言葉は、特にこの数年間、教会の中でよく使われるようになりました。どちらの訳が正しいのでしょうか。私たちは両方とも共に読まなければなりません。こうすることによってはじめて天使たちが真に言わんとしたことを正しく理解できるのです。神が自由と愛の答えに人々を招いておられることを抜きにして、ただ神の業だけを認めるような解釈は間違っているといえましょう。しかし、人が自分自身の善意で自分を救うというような解釈もまた間違っていると言わなければなりません。
恵みと自由は一緒に進まなければならないものです。神の愛は私たちに先行します。神の愛がなければ、私たちは神を愛することもできません。神は私たちの答えを待っておられます。その御子の誕生においては、待つだけではなく私たちに懇願さえしておられます。
恵みと自由、呼びかけと答えは、双方を切り離してばらばらにすることはできないものです。双方とも切り離すことができないように結びついています。 ですから、この言葉も約束と答えを一緒に表すのです。神は私たちに先行して、その御子を私たちに与えてくださいました。いつも神は私たちが考えつかないような方法で私たちの先を行かれます。神は私たちを常に探しておられます。そして必要な時はいつも、私たちを支えてくださいます。
神は荒野でさまよう羊を見捨てることはありません。神は私たちを罪の中に捨て置くことはしません。神はいつも私たちと再び歩み始めてくださいます。しかし、神は私たちの愛を待っておられます。神は、私たちが神と共に愛する人となれるように、この世の平和となれるようにと、私たちを愛してくださるのです。

聖ルカは天使たちが歌ったとは言っていません。彼は大変簡潔に書いています。「天の大群は神を賛美していた。そして言った「天のいと高きところには神に栄光…….」(ルカ2,13s)。
しかし、人々はいつも、天使たちの話し方は人間のそれとは違うということを知っていました。まさしくこの夜、喜びのメッセージは、神の崇高な栄光が輝く歌だったのです。こうして、天使たちのこの歌は、最初から神に由来する音楽、むしろ神から愛されているという心の喜びのうちに、共に歌に一致するよう招くものと受け取られてきました。
“Cantare amantis est”
「歌うということは、愛する人のすることです」と聖アウグスティヌスは言っています。こうして長い世紀にわたって、天使たちの歌はいつも新たに愛と喜びの歌、愛する人々の歌となったのです。今、私たちも感謝を込めて、世紀を通じて歌われてきた、天と地、天使と人間を結ぶこの歌に心を合わせましょう。
神よ、あなたの限りない栄光のゆえに感謝します。あなたの愛のゆえに感謝します。私たちをよりいっそう、あなたと共に愛する人、平和の人となれるようにしてください。アーメン。







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