2010-11-23 18:45:42

「世の光」教皇とジャーナリストの対話を出版・発表


教皇ベネディクト16世とドイツ人ジャーナリストの対話をまとめた本「世の光・教皇・教会・時代のしるし」が、23日、教皇庁広報局より発表された。

この本は、昨夏、カステルガンドルフォの離宮で1週間にかけて、教皇とジャーナリスト、ペーター・ゼーヴァルド氏が行ったインタビュー形式の対話を記録したもの。

バチカン出版局から24日発売される同書(イタリア語版)は、およそ280ページにわたり、この中で教皇はゼーヴァルト氏の90以上に及ぶ質問に、誠実・率直に答えている。

同書が扱うテーマは、教皇の日常生活から今日のカトリック教会や人類が直面する重要な諸問題に至るまで多岐にわたり、教皇はこれらのテーマに対し非常に平明な言葉で語りながら、同時に深い回答を与えている。

教皇はこの対話の中で、今日「愛である神」を「新しい言葉」で再び告げる必要を強調。「キリストは十字架上で私たちの罪の贖いのために御血を流された」という偉大なメッセージが、「実利的な無神論」に影響され、新しい地平線に目を向けることのできない現代人の考え方から離れつつあることを憂慮している。

教会はこの真理を告げるためにこそ存在するのであり、様々なスキャンダルが教会を傷つけても、それは一方で、教会とはイエスご自身が創立したものであることを私たちに示す機会ともなったと回想。「教会が人間によるものならば、それはもう大昔に沈んでいたことだろう」と話した。

教皇は今日の希望のしるしとして、組織や形式主義の結果としてではなく、教会の内側や、若者たちから生まれてくる新しい試みを喜ばれている。そして、キリスト教が世界を変えるこの新しい活力をもって、新たな役割を担うことを期待している。

教皇職については「何ひとつ強制する権力を持たない」存在であるが、「十字架に掛けられたキリストを証しする人間」でなくてはならないと述べている。

教皇の不謬性とはごく限られた状況と条件の中で有効であることを思い出させながら、教皇であっても個人的な意見や間違った意見はありうると説明。また、教皇は体力的・精神的・霊的に託された職務を果たせないとの自覚に至った時、辞任する権利があるとも述べている。

また、教皇を取り巻く環境は、孤立した人工的なものではなく、実際には世界中のありとあらゆる人々との生き生きとした出会いに満ちており、信徒たちからの祈りと励ましに常に勇気付けられていることを明かされた。

現代社会の様相について、今日の真の脅威とは、寛容主義によって「寛容」自体が意味を成さないものとなることと教皇は指摘。抽象的で支配的な今日の新しい信仰は、満足を知るところ無く幸福をむさぼり、発展の名のもと、偽りや破壊をもたらすまで限界を超えて享楽を追求することで、人類そのものを滅ぼしてしまうと警告。それを変えるためには、神を人々の中心に据えることが必要と話した。

聖職者による未成年の性的虐待を愕然とする出来事と述べた教皇は、教会は罰することを知り、今を清めの時としなければならないとしている。

エイズ問題に触れた教皇は、教会が他のどの組織よりも、これまでいかに具体的に人々に寄添い、患者をケアしてきたかを示した。そして「エイズ問題はコンドームの配布では解決できず、さらに多くの努力が必要」と強調。「感染の危険を減少させる」という動機のために個々のケースでその使用が正当化されることはあるかもしれないが、「教会はコンドームを真の倫理的解決とは見なさない」と話した。

堕胎については、一人の「人間」である子どもたちの命を奪うことで、社会は自分自身から大きな希望を奪うことのないようにと呼びかけている。

この他、教皇は、離縁・再婚したカップルの司牧や、ルフェーブル派の問題、イスラム教徒の対話やエキュメニズム、典礼問題など、幅広いテーマに答えている。

最後に教皇は、聖体を「世界の歴史の中心をなす出来事、変化を起こすことのできる決定的な力」として見つめ、それゆえに「キリストに触れた」聖人たちは「善の革命」の真の革命家であると話した。

聖母マリアは私たちが見ることのできない本質的なもの「信仰・希望・愛・忍耐」を教えてくれると述べながら、教皇は、善の勝利を待つ中で、「神の勝利、マリアの勝利は静かではあるが、現実である」ということを忘れてはならないと述べている。 







All the contents on this site are copyrighted ©.