2010-08-19 16:58:15

教皇一般謁見・カテケーシス(2010.8.11)


愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日はクララ会の創立者、アッシジの聖クララの祝日です。この素晴らしい聖女について近いうちにお話したいと思います。このカテケーシスでは、先の日曜の祈りの席で予告したように、初代教会の殉教者たち、たとえば、聖ラウレンチオ助祭や聖ポンツィアーノ教皇、聖イッポリト司祭など、また私たちに近い時代の殉教者、ヨーロッパの保護者である十字架のテレジア・ベネディクタ修道女(エディット・シュタイン)や、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父らを思い起こしながら、神への全面的な愛の一つの形である殉教について考えて見ましょう。

殉教の土台とは何でしょうか。答えは単純です。私たちが永遠の生命を得ることができるようにと、十字架上で実現されたイエスの死であり、愛の最高の自己犠牲です。キリストはイザヤ預言者が語る苦しむしもべ 、多くの人を解放するために自分の命を捧げた方です。キリストは毎日自分の十字架を背負い、父なる神と人類への全面的な愛の道に従うよう私たち一人ひとりを励まします。主は言われます「自分の十字架を取り、私に従わない者は私に相応しくない。自分の生命を保とうとする人はそれを失い、私のために生命を失う人はそれを得るであろう」(マタイ10,38-39)と。

それは、自らは死んで、芽を出し生命をもたらす、あの麦の種子の論理です。 イエスご自身が神から来られた麦の粒です。地に落ちて、つぶされて、死に、そしてまさしくこれによって広い世界に実をもたらします。殉教者は信仰と愛の最高の証しの中で、世界の救いのために自ら進んで死を受け入れ、最後の最後まで主に従います。

今一度、尋ねてみましょう。殉教するための力は、一体どこから来るのでしょうか。それは深く親密なキリストとの一致からです。なぜなら殉教も、殉教への召命も、人間的な努力の結果ではなく、神からの呼びかけ、神のイニシアティブへの答えだからです。それはキリストや教会への愛のため、またさらに世界のために自分の生命を捧げることを可能にする、神の恵みの賜物だからです。 殉教者たちの伝記を読む時、彼らが苦しみや死を前に、どれほど勇敢で冷静であったかに驚かされます。使徒聖パウロは言っています。「神の力は、神に信頼し自分の希望を神にのみ置く者の、弱さと貧しさの中に、完全に示されます」(2コリント12,9)と。

しかし、神の恵みは、殉教に赴く人の自由を押さえつけたり、窒息させたりはしません。その反対に、自由をますます豊かにし、高めるのです。殉教者は完全に自由な人です。権力に対しても、世界に対しても、殉教者は自由です。 殉教者は信仰と希望と愛の最高の業として、全生命を決定的に神に奉献します。創造主であり救い主である神にまったく自分を任せ、十字架上でのキリストの犠牲に全面的に参与するために、自分の生命を犠牲として捧げます。一言で言うなら、殉教とは神の広大な愛に対する答えとしての、大きな愛の行為なのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おそらく私たちは殉教には召されてはいないかもしれません。しかし、私たちも皆一人残らず聖性に、そして、キリスト者として最高度に生きるよう召されています。このことは一人ひとりが毎日自分の十字架を担うことを必要とします。特に利己主義と個人主義がはびこるこの時代にあって、自分自身を変え、さらに世界をも変えていくためには、私たちは皆、毎日、神と兄弟たちへの愛をますます大きく育てるという第一のまた根本的な務めを果たさなければなりません。

主が私たち一人ひとりを愛されたように、私たちの心にも愛を燃えたたせてくださるよう、聖人たちや殉教者たちの取次ぎを願いましょう。







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