2010-08-11 18:41:51

神への完全な愛の形としての殉教を考える、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、11日、水曜恒例の一般謁見を滞在先のカステルガンドルフォで行われた。

謁見中の講話で教皇は、先日の日曜の集いと同様に8月に記念される聖人たち、特に、初代教会の殉教者、聖ラウレンチオ助祭、聖ポンツィアーノ教皇、聖イッポリト司祭、また20世紀の殉教者、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父、十字架の聖テレジア・ベネディクタ修道女ら、を思い起こしながら、神に対する完全な愛の形である殉教について考えられた。

殉教は何の上に成り立つのか、という問いに対し、それはイエスの死、私たちが命を受けるために十字架の上で成し遂げられたイエスの究極の愛の犠牲にほかならないと、教皇は述べられた。

殉教とは、一粒の麦は地に落ちて死ぬことで多くの実を結ぶ(ヨハネ12,24)という言葉の示すとおりであり、殉教者とは、神なる麦の粒としてご自身の死において世を贖われたイエスに最後まで従い、信仰と愛の至上の証しのうちに、世の救いのために自由に死を受け入れた人々であると話された。

では殉教に立ち向かう力はどこから生まれるのか、これに対し教皇はそれはキリストとの深く親密な一致から生まれると強調。そして、殉教や、殉教への召命は人間の努力による結果ではなく、神の呼びかけへの答えであり、自身の命をキリストと教会、世界への愛のために差し出すことを可能とする、神の恵みによるものと説かれた。

神の力は弱さや貧しさの中で表され、神の恵みは殉教と向かい合った者の自由を押しつぶさず、むしろ高めるものと教皇は述べ、殉教者は権力やこの世に対して自由な人間であり、殉教とは神の無限の愛に対する答えとしての偉大なる愛の行為といえると説明された。







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