2010-03-15 18:53:52

四旬節特集:灰の水曜日の教皇説教


復活祭前の準備期間、四旬節の開始を告げた2月17日「灰の水曜日」、教皇ベネディクト16世はローマ市内の聖サビーナ教会でミサを捧げられ、この中で伝統の灰の儀式を行われた。

ミサ中の教皇の説教は以下のとおり

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「主よ、あなたはあなたが造られたすべてのものを愛され、あなたがお造りになったものを何一つなおざりになさいません。あなたは回心するすべての人の罪を忘れ、赦されます。なぜなら、あなたは私たちの神、主だからです」。(入祭唱)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

知恵の書から取られたこの感動的な祈りをもって、灰の水曜日のミサは始まります。この言葉はある意味で、神の全能の愛、すべての被造物の上に行使される神の絶対的な支配を基礎に据えながら、四旬節の全行程を開きます。神の絶対的な支配は、その無限の赦しと、すべてのものが生きることを望まれる不動の意思とにおいて表されます。事実、ある人を赦すということは、次のように言うことに等しいのです。「私はあなたの死を望まない。むしろあなたが生きることを望む。私はいつもただあなたの善だけを望んでいる」。

この絶対的な確実さが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた後でのユダの荒野における40日間のイエスを支えました。あの長い沈黙と断食の日々はイエスにとって御父とその愛のご計画に対する完全な委託の日々でした。それはそのものとして一種の「洗礼」でした。すなわち御父のみ旨の中に「まったく浸る」ことであり、この意味では後の受難と十字架とを前もって体験することでした。

荒野の中に深く入り込み、そこに長い間留まることは、敵、アダムを堕落させ、その妬みによって世に死が入ったあの誘惑者の攻撃に自ら身をさらすことを意味しました。御父の全能の愛に対する不屈の信頼以外の武器を持たずに、戦場で敵との戦いに臨むということをも意味していました。「あなたの愛だけで私には十分です。 私の食べ物はあなたの御旨だけです」。この覚悟がこの「四旬節]の間、イエスの心と精神を占めていました。 それは傲慢でも蛮勇でもありません。謙遜の選択でした。それは受肉の神秘にもヨルダン川での洗礼にも合致した父なる神の憐れみの愛への従順とまったく同じ線上にあることでした。御父は「その一人子を与えるほどに世を愛されました」。(ヨハネ 3,16)

主イエスはこれらすべてを私たちのためになさいました。私たちを救うために、同時に彼に従う道を私たちに示すためにこれをなさったのです。事実、救いは賜物、神の恵みです。しかし、それが私たちの中で効果を表すためには、私たちの同意、承諾、行いにおいて表された私たちの受け入れが必要です。すなわちイエスのように生き、イエスの後に従いたいという強い意志の中にそれを表すことが要求されます。

四旬節の荒野でイエスに従うことは、とりもなおさずイエスの復活、その「過ぎ越し」に参与するための不可欠の条件です。神との交わりのシンボルである楽園から追放されたアダムは再び、真の生命、永遠の生命であるこの神との交わりに戻るために、荒野すなわち信仰の試みを通過する必要があります。しかし、一人ではなく、イエスと一緒にです。いつもの通り、すでにイエスは私たちの前に行き、悪の霊に打ち勝っています。これが四旬節の意義です。罪と死に対するイエスの勝利に参与するために、謙遜の道をキリストにあくまでも従うという選択を更新するよう、四旬節という典礼の季節は私たちを招きます。

このように考えることで、善意を持って四旬節の歩みを開始する人々の額の上に置かれる灰の儀式の償いのしるしの意味もよく理解されます。私自身が神の似姿としてつくられ、また神に向けられたものであっても、ちりから造られ、ちりに戻らなければならない儚い存在であることを認める、本質的に謙遜の行為です。

ちり、そのとおりです。しかし、神から愛され、その愛によって形作られ、その生命の息によって生かされ、 神の声を識別し、神に答えることのできるちりです。そして自由で、それゆえに傲慢や自分で何でもできるとの慢心の誘惑に陥り、神に逆らうこともできるちりです。これが人間存在そのものである祝された地を早くも汚染するために入り込んできた霊的病気、罪なのです。聖なる方、義なる方の似姿として作られた人間は自分の清さを失いました。

聖パウロが書いているように、「イエス・キリストへの信仰によって、神の義は表されました」。そして、人は、今、神の義、その愛の義によってのみ、正義の状態に立ち戻ることができるのです。 (ローマ 3,22)。この四旬節にすべての信者たちに向けたメッセージのために、私はこの使徒聖パウロの言葉から聖書の光の下での義とキリストにおけるその実現をテーマに考察しました。

灰の水曜日の聖書朗読の中でも、義についてのテーマが見られます。まず第一にヨエル預言書と答唱詩篇「ミゼレーレ」です。物質的また社会的な不正の原因として、聖書が「不義」と呼ぶいわゆる罪をあげています。これは根本的に神に対する不従順のことですが、別の言い方をするなら「愛の欠如」とでも言えましょう。「私は自分のとがを知っています 。わたしの罪はいつも私の前にあります。私はあなたに向かい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪いことを行いました」(詩編l 51,3-5)。

ですから、義の最初の行為はまず自分自身の不義を認め、そして、この不義は人間存在の中心である「心」に根付いたものだと認めることです。「断食」も「涙」も「嘆き」もあらゆる痛悔のしるしは、誠実に痛悔する心を表す時にのみ、神の目の前で価値があるのです。「山上の垂訓」からとられた福音も「施し」や「祈り」「断食」といった個人的な「義の業」も、人々に見せびらかすためにではなく「隠れたことをご覧になる」神の目の前でだけ実行するよう強調しています。(マタイ 6,1-6 16-18)。

本当の報いは人々から賞賛を受けることではなく、神との友情であり恵みです。この恵みは平和と善を実行する力を、そして値しない人をも愛し、私たちを侮辱する人をも赦す力を与えてくれるのです。







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