2010-02-09 17:50:37

神の呼びかけ「召命」を考える、教皇、日曜正午の祈り


教皇ベネディクト16世は、バチカンで7日、日曜正午のアンジェラスの祈りを信者と共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日のミサ中の朗読のテーマ、神の呼びかけ「召命」に注目された。

第一朗読のイザヤ書(6,1-2.3-8)では、預言者イザヤが「汚れた唇の者」として自分が主の御前にふさわしくない者であることを畏れていると、セラフィムが祭壇から取った炭火を彼の口に触れさせ清め、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と主の呼びかけに答えることができるようになる。

福音朗読、ルカ福音書の「大漁の奇跡」(5,1-11)のエピソードでも同様のテーマが見られる。夜通し漁をしても何もとれなかったにも関わらず、シモン・ペトロと仲間たちは、イエスの言葉を信じて網を降ろし、あふれるほどの大漁を得た。ペトロがイエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言うと、イエスは「恐れることはない。これから後、あなたは人間をとる漁師になる」と言い、ペトロはすべてを捨ててイエスに従った。

さらに第2朗読、コリントの信徒への手紙1(15, 1-11)でも、聖パウロはかつて教会を迫害していた自分の過去を振り返りつつ、自分は使徒と呼ばれる値打ちのない者でありながら、神の恵みによって福音を述べ伝えるために働いている、と述べている。
教皇はこれら3つのエピソードに、人が神との真の出会いによって自分の貧しさ、限界、罪を謙虚に認め、神の憐れみと赦しによって命を新たにされ、神に従うように招かれるという体験を浮かび上がらせた。

そして、イザヤ、ペトロ、パウロの謙虚さは、神の呼びかけを受けた者たちに自分の限界だけに心を囚われず、主ご自身と主の驚くべき憐れみを見つめ、回心し、すべてを捨てて喜びのうちに進んでいくよう招いていると述べられた。

教皇は、開催中の司祭年にあたり、多くの司祭召命を祈ると共に、司祭たちの神の恵みに信頼した寛大な奉仕を望まれた。







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