2010-01-28 18:11:56

アッシジの聖フランシスコをテーマに、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は中世の教会の考察の一環として、12世紀の教会刷新の中心となったアッシジの聖フランシスコを取り上げられ、「聖性の巨人」として、時代と宗教を越えて今も多くの人を魅了し続ける同聖人の生涯を振り返られた。

フランシスコは、1181年の終わりから1182年の初め頃、イタリア・アッシジの裕福な織物商人の家庭に生まれた。苦労知らずの青年時代を過ごし、騎士道的世界に憧れていた。20歳で軍隊に志願、戦争に参加し、捕虜となった。重病を患い、アッシジに戻った後、回心の芽生えが始まり、世俗的な生活を次第に遠ざけるようになった。

1205年頃、彼が聖ダミアノ聖堂で祈っていると、「フランシスコ、行って、わたしの教会を修繕しなさい。今にも崩れそうだから」という主の声を聞いた。この招きに、フランシスコはただちに聖ダミアノ聖堂の修理に取りかかった。

教皇は、形式だけの信仰や、不熱心な聖職者、愛の欠如などが、教会を内部から破壊し、一致を損なっていた当時の状況に、「壊れそうな教会を直すように」との主の招きは、教会を刷新するようにとの深い象徴的意味を持っていたことを指摘された。

フランシスコの父は、息子が貧しい人に寛大すぎることを快く思っていなかった。フランシスコは勘当されたしるしとして、アッシジの司教の前で着ている服まで全部脱いで父に返した。

教皇は、このようにしてフランシスコは神から与えられた命以外の何ものをも持たない、生まれたままの状態になり、神に自らのすべてを委ねることになった、と話された。

隠修生活を行いながら、フランシスコは清貧への招きと、説教に従事する必要を感じた。1209年、彼は仲間と共にローマを訪れ、教皇イノセント3世に謁見し、新しい形のキリスト教生活の計画を教皇に委ねた。偉大な同教皇は、フランシスコの起こした運動に神の摂理を見た。

フランシスコは、すべてのカリスマは聖霊の賜物であり、それをキリストの体である教会への奉仕に捧げるべきであることを知っていたと教皇は述べ、フランシスコが常に教会との完全な交わりを大切にしていたことに注目された。

フランシスコと、日ごとに増える弟子たちは、ポルツィウンクラを根拠地に定めた。貴族の娘クララもフランシスコの指導を仰ぐようになり、これが「クララ会」の起源となった。

教皇オノリオ3世の在位下、「小さき兄弟会」はヨーロッパ全体だけでなく、モロッコにまで宣教を広げた。フランシスコはイエスの福音を説くためにエジプトへ赴き、スルタンに面会した。また、1220年、彼は聖地まで足を延ばし、これが後の聖地でのフランシスコ会のミッションの基礎となっていった。

フランシスコはスルタンのもとで温かく丁重な歓迎を受けたが、相互理解のうちに対話を推進するこの出会いは、今日のキリスト教とイスラム教間の対話に多くを示唆するものであると、教皇は述べられた。

イタリアに戻った後、フランシスコは修道会の指導を弟子に譲り、祈りと説教に専念した。1224年、ラ・ベルナで、フランシスコは聖痕を受けた。これは彼がキリストにますます内的に一致したことを表すものであった。

1226年10月3日、臨終を迎えたフランシスコはポルツィウンクラで弟子たちを祝福した後、裸で地面に横たわって帰天した。

こうしてフランシスコの生涯を紹介された教皇は、「もう一人のキリスト」、「キリストの兄弟」とさえ呼ばれる彼が理想としていたものは、まさにキリストの福音を観想し、愛し、それに倣うことそのものであったと話された。

また、教皇はフランシスコが聖体の秘跡をとり行う司祭たちを常に敬っていたことを思い起こしながら、現在行われている「司祭年」にあたり、フランシスコが願ったように聖体の聖性に関わる司祭たちが清くふさわしい者となるよう励まされた。

教皇はさらに、フランシスコが抱いていた神のすべての被造物に対する尊重と宇宙的愛は、今日の私たちにも多くのメッセージを与えてくれると述べられた。

「フランシスコは偉大な聖人であると共に、喜びの人であった」と教皇は話され、彼の単純さ、謙遜、信仰、キリストへの愛、隣人への優しさが多くの状況を良いものに変えていったことを思いながら、同聖人の生き方、聖性に深く学ぶよう招かれた。







All the contents on this site are copyrighted ©.