2009-08-21 18:46:52

サン・ジョヴァンニ・ロトンド司牧訪問・教皇ミサ説教


教皇ベネディクト16世は、6月21日、イタリア・プーリア州のサン・ジョヴァンニ・ロトンドを司牧訪問された。

サン・ジョヴァンニ・ロトンドは、聖ピオ・ダ・ピエトレルチーナ神父(カプチン会士、1887-1968)が生涯の大半を過ごした町として知られ、年間700万人が訪れる南イタリア有数の巡礼地。

教皇はサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会を訪れ、聖ピオ神父の墓の前で祈りの時を持たれた後、教会前広場で巡礼者参加のミサをとり行われた。
以下は教皇のミサの説教。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

巡礼の中心とも言えるこの場所では、すべてがピエトラルチーナのピオ神父の生涯とその聖性について語っています。ここで今、皆さんのために、皆さんと共に、ミサを捧げることは、私にとって大きな喜びです。ミサはパードレ・ピオ(ピオ神父)の全存在の中心、その召命の起源、証しの力、犠牲の奉献でした。

私たちは今、イエスが湖の嵐を静めたというエピソードを語る福音に耳を傾けました。この話と共に、簡潔でありながらも明確なヨブ記の一節が引用されています。その中で神は海を治める主として表されています。まるで海が悪の力を表すかのように、イエスは海を叱り、静まるようにと命じます。事実、第一朗読と詩編(107)に見られるように、聖書においては、海という概念はいつも何か脅迫するもの、混乱をもたらし破壊する力と考えられています。それを支配し、治め、静めることのできるのは神だけです。

一方、もう一つ別の力、積極的な力があります。それは世界を動かし、創造物を変え、新たにすることのできる力です。聖パウロはこの力をコリントに宛てた第二の手紙の中で「キリストの愛の力」と呼んでいます(2 コリント 5,14)。

ですから、この力は本質的に物理的な力のことではなく、超越的で神的な力のことです。この宇宙の上にも働きますが、キリストの愛はそのものとして別の力です。別のものであるというわけは、その超越性にあります。紅海の水を通してヘブライ人をエジプトから脱出させた時に起こったように、主はその力をご自分の過ぎ越し、すなわち復活において、悪の力から私たちを解放するためにご自分が選ばれた「道」の「聖性」において示されました。

詩編作家は歌います「神よ、あなたの道は聖である。あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にある」 (詩編 77,14.20)。過ぎ越しの神秘において、イエスは海の深淵を通り過ぎました。なぜなら、神がこのようにして世界を更新することを望まれ、皆が生きることのできるように、すべて人々のために死なれたその御子の死と復活を通して世を救われたからです。(2 コリント 5,16)。

荒れ狂う海を静めるという荘厳な行為は、明らかに悪の権力に対するキリストの支配力のしるしであると同時に、キリストの神性をも示します。「弟子たちは大いに恐れて、いったいこの方は誰だろう。風も湖もこの人の言うことを聞くとは、と互いに言った」 (マルコ 4,41)。彼らの信仰はそれほど堅いものではなく、まだ成長過程にありました。その信仰は恐れと信頼が交じり合ったものだったのです。しかし、イエスの御父に対する信頼に満ちた委託は全面的です。

ですから、この愛の力によって、イエスは嵐の最中でも神の腕の中でまったく安心して寝ていることができるのです。しかし、いずれイエスにも恐れと苦悩を体験する時が来るでしょう。ご自分の時の到来には、自分自身の上に覆いかぶさる大波のように人類の罪の重さを感じることでしょう。そうです。それはまるで恐ろしい嵐のようでしょう。しかし、その嵐は物理的な嵐ではなく、霊的な嵐でした。それは神の御子に対する悪の力の最後の最高の攻撃だったのです。

しかし、その時イエスは決して神なる父の力も、御父が共にいてくださることをも、疑っていませんでした。たとえ憎しみによって愛から、虚偽によって真理から、罪によって恵みから、まったく引き離された状態を体験せざるを得ない時でも。

イエスはこのドラマを、特に逮捕される前に、あのゲッセマニの園で身を引き裂かれるような方法で身をもって体験しました。そしてその後、受難の間ずっと死に至るまで、すなわち十字架上での死に至るまで、それを体験し続けたのです。一方、イエスはその時、同時に神ご自身から見捨てられ、神から切り離されたかのような体験をもって、罪びとたちとの連帯をも実感しました。

ある聖人たちは、このイエスの同じ体験を身をもって深く実感しました。ピエトラルチーナのピオ神父はそのような聖人たちの一人でした。パードレ・ピオは、聖パウロが自分自身について言っているような「キリストに捕らえられた(フィリピ 3,12)」、貧しい出身の単純な人でした。また、彼は十字架の永遠の力、霊魂のための愛の力、赦しと和解の力、霊的父性、苦しむ人々との具体的な連帯の道具となるために選ばれた人でした。

その身体に刻まれた聖痕は、ピオ神父を十字架上で死にそして復活されたキリストに内的に一致させました。ピオ神父は、アッシジの聖フランシスコの正真正銘の追従者として、使徒聖パウロの体験を自分自身のものとしました。「私はキリストと共に十字架にかけられました。生きるのはもう私でなく、キリストが私の中で生きているのです」(ガラテヤ 2,20)。これは決して狂気も人格喪失をも意味 していません。神は人間性を決して損なうことはありません。神は人間的なものをその霊によって変え、救いのご計画への奉仕に向けられるのです。パードレ・ピオは、生来の自然的特質をすべて保っていました。自分自身の性格をもそのまま保っていました。しかし、パードレ・ピオは福音を告げ、罪を赦し、霊肉の病人を癒すというキリストのみ業を継続するために、それらを自由に使用することのできる神にすべてを捧げ尽くしたのです。

イエスにとってもそうであったように、パードレ・ピオの本当の戦い、彼が真に向かい合わなければならなかったのは、この地上の敵ではなく、悪魔との徹底的な戦いでした。彼を脅かしていた最も大きな「嵐」、それは悪魔の攻撃だったのです。パードレ・ピオはこの攻撃に対して「神の武具」「信仰の盾」「神のみ言葉である聖霊の剣」(エフェソ 6,11.16.17)をもって身を守るのでした。

キリストと深く一致していたピオ神父は、人間のドラマに深くかかわっていました。ですから、自分自身を完全に捧げ、またその多くの苦しみをも奉献し尽くしていたのです。こうして、多くの病人を癒し、その苦しみを和らげることができたのです。それは神の憐れみのしるしであり、神の到来のしるし、否、もう神の国がすでにこの世に来ている事のしるしでもありました。また、 愛の勝利、罪と死に対する勝利のしるしでもあったのです。霊魂を指導し、苦しみを和らげること、パードレ・ピオの使命をこれらの言葉で要約することができます。神のしもべ・パウロ6世も、ピオ神父について「彼は祈りと苦しみの人でした」と語っています。

親愛なる友人の皆さん、カプチン会の修道者たち、祈りのグループの会員、そしてサン・ジョヴァンニ・ロトンドの信者の皆さん、皆さんはピオ神父の後継者たちです。ピオ神父が皆さんに残していった遺産は、聖性です。彼は手紙の中で書いています「イエス様は皆さんの霊魂を聖化すること以外、何も気にしていないかのようでした」(Epist. II, p. 155)。これこそパードレ・ピオが第一に気にかけていたことであり、彼の司祭としての、また父としての最高の心配事でした。

人々が神の元に戻り、その憐れみを体験し、内的に刷新され、そしてキリスト教徒であることの美しさの喜びを知り、キリストと一致して生きる喜び、さらにキリストの教会に属することの喜び、福音を実践することの喜びを再発見するようになることを願っていたのです。パードレ・ピオは、聖性に人々を導く「線路」である祈りと愛徳を示しながら、人々をその自分自身の証しをもって聖性の道にひきつけていました。

何よりも先ず祈りです。すべての偉大な神の人と同じように、パードレ・ピオも彼自身が身も心も祈りとなったのです。彼の日々は生きたロザリオそのものでした。つまり、一日中が聖母マリアとの一致におけるキリストの神秘の黙想とその実現にあったのです。こうしてどのようにパードレ・ピオにおいて超自然と人間的な具体性があれほどまでに共存できたのかが理解されるのです。

すべての頂点は、ミサの中にありました。ミサの中においてこそ、パードレ・ピオは、十字架上で死にそして復活された主に全く一致していました。祈りから、生ける水の泉のように絶えず愛があふれていました。彼が心の中に保ち、人々に伝えていた愛は、優しさに満ち、家庭や人々の現実問題にいつも即したものでした。特に病人たちや苦しんでいる人々に対して、キリストの心の特別な愛を養っていました。まさしくここから「苦しみを和らげる」ためのあの偉大なプロジェクトが生まれたのです。このような病院の建設の実現という事実は、その原動力となった祈りによって生かされた福音的愛そのものから切り離しては、十分に理解することも解釈することもできません。

親愛なる皆さん、ピオ神父は今日私たちにこれらすべてを再び提示しています。単なる活動主義や、世俗主義に陥る危険はいつの時代にもあります。ですから、この度の私の訪問は、皆さんの愛してやまないピオ神父から託された使命に、皆さんがますます忠実に留まれるよう力づけることにもあったのです。

皆さんの多くは、修道者も信徒も、毎日巡礼者や病院の患者から要求される様々なことに振り回され、真に最も必要なこと、すなわち神のみ旨を行うためにキリストに聞き入るということをなおざりにしてしまう危険があります。もし皆さんがこの危険に近づいていることに気がつくなら、すぐにピオ神父に目を向けてください。彼の模範、彼の苦しみに目をやってください。そして、神への愛と兄弟愛に満たされたピオ神父と全く同じ使命を果たすことができるよう、必要な光と力をあなたたちのために主から獲得してくれるよう、彼の取次ぎを願ってください。

また、ピオ神父が地上でそうであったように、天からも皆の霊的父であることを続け、兄弟や霊的な子供たちと共に歩み、彼が始めた業を続行してくださいますように。ピオ神父がこの世にある時、自分自身も大変愛し、また皆にも愛させた聖フランシスコと聖母マリアと共に、いつも皆さんを見守ってくださいますように。そうすれば、たとえ大きな嵐に見舞われても、あらゆる逆風よりも強く、また教会と私たち一人ひとりを押し進めてくれる聖霊の風を体験できるでしょう。いつも安心して生き、主に感謝しながら、心の中に喜びを養わなければなりません。「神の愛は永遠です」アーメン。







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