2009-08-14 13:08:14

教皇一般謁見・カテケーシス抜粋(2009.8.12)
 


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

聖母マリアの被昇天の大祝日を間もなくこの土曜日に祝います。そして、今年はまさしく「司祭年」でもあります。そこで今日は、聖母マリアと司祭職との間にある深い関係について話したいと思います。この関係は神の御子の受肉の神秘に深く根づいています。神がその御子において人となることを決定した時、自分の被造物である一介の女性の自由な承諾を必要としました。神は私たちの自由に反しては動かれません。ここで実に素晴らしいことが起こります。クレルボーの聖ベルナルドは、天も地も神自身もこの被造物である女性が何と答えるだろうかと固唾を呑んで待ち構えている、世界の歴史の中の決定的な瞬間を、劇的にその説教の一つの中で説明しています。

ですから、マリアの承諾は、神がこの世に入るため、人となるための門の役目を果たしたのです。神の御子のご託身の神秘、私たちの救いの神秘に、マリアは実際にこれほど深く関与しました。神の御子の受肉、神の子が人となるということは、最初から世の生命のためのパンとなるための十字架における大きな愛の自己犠牲に向けられていました。

十字架の場面を見てみましょう。イエスは死ぬ前に十字架の下に「母」を見ます。そして、「愛する子」をも見ます。この愛する子は、確かに一人の人間です。大変重要な人物です。それ以上にすべての愛する弟子たち、「愛する弟子」となるために主から呼ばれたすべての人々の前表、一つの典型です。その結果として、特に司祭たちを前もって表すものです。イエスはマリアに言います「お母さん、これはあなたの息子です」。これは一種の遺言と言えましょう。ご自分の母を子としての弟子の世話に託します。弟子には「これはあなたの母です」と言います。福音書は、この時から愛する子、聖ヨハネは「自分の家に」マリアを引き取ったと言っています。イタリア語ではこのように訳されていますが、ギリシャ語原文はもっと深く、豊かな意味を持っています。マリアを自分の人生、その存在の奥深くに受け入れたとでも訳すことができるでしょう。マリアを自分の所に引き取ったということは、単に物理的に引き取ったということではなく、自分自身の全存在の内奥に導き入れたということをも意味します。またそれは、彼自身の使徒職を規定するすべての中にも受け入れたということです。

これよって、マリアと司祭たちの間にあるこの特別な母子関係が、どれほど私たち一人ひとりに対する特別な愛の根本的な理由、第一の源泉であるかが解るでしょう。マリアは主に2つの理由によって司祭たちを特別に愛します。なぜなら、彼らは彼女の心の最高の愛であるイエスにより似ているからです。さらに、司祭たちは聖母のようにイエスを世にもたらし、証し、宣教するという使命を果たしているからなのです。







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