2009-07-22 18:20:36

イエスのみ心の大祝日:「司祭年」開始に際しての教皇説教


教皇ベネディクト16世は、「イエスのみ心」の大祝日の6月19日、バチカンでとり行われた第二晩課の集いの中で「司祭年」の開始を宣言された。
「司祭年」開始に際しての教皇の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

しばらくしたら「聖母賛歌]の中で「主は私たちをその心の中に受け入れました]と歌うでしょう。旧約聖書の中では、26回、神の心について語られています。心は神の意志の器官として考えられています。人は神の心によって裁かれます。

人間の罪のため、その心の痛みのゆえに、神は大洪水を起こします。しかし、人間の弱さに心を動かされ赦します。

神の心というテーマがはっきりと現れている旧約聖書の箇所があります。それは「ホセアの書」の11章に見られます。そこでは最初の数節でイスラエルの歴史の初めにイスラエルに向けられた神の愛が語られています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア11,1)。事実、イスラエルは神の疲れを知らないその愛に、無関心どころか、恩知らずな態度で応えるのでした。「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去っていった」(同. 2)。しかし、神はイスラエルを敵の手には渡しませんでした。なぜなら、全宇宙の創造主は、「激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれ」ているからです。 (同. 8)

神の心は憐れみで震えています。今日のイエスのみ心の大祝日にあたり、教会はこの神秘、すなわち、感動し、さらにすべての愛を人類の上に惜しみなく注がれる神のみ心の神秘を、深く観想するよう招きます。それは新約聖書の中で、人類のための神の計り知れない愛として啓示される、神秘的な愛です。神は自らが選ばれた民の恩知らずな態度にも、さらにその拒否にも少しも動じません。破壊された愛の宿命を自分自身の身に負い、悪と死の権力を打ち砕き、罪によって奴隷の身分に落とされた人類に子としての尊厳を取り戻すために、かえって無限の憐れみからその一人子を世に送られました。このすべてのために神は高い代価を払わなければなりませんでした。天の御父の一人子は十字架上で犠牲とされたのです。

キリストは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました」(ヨハネ 13,1)。死をもはるかに凌駕するこれほどの愛のシンボルは、槍によって貫かれたそのわき腹です。これに関して、目撃者であった使徒聖ヨハネは次のように言っています。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐに血と水とが流れ出た」 (ヨハネ 19,34)。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、「司祭年」開始を告げる今日のこの儀式に大勢集ってくださり、心から感謝します。

十字架にかけられたイエスの貫かれたみ心を観想するために、しばらく共に留まりましょう。少し前に聖パウロのエフェソの教会に宛てた手紙の言葉を聴きました。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪の業ゆえに死んだ者であったわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスに結ばれたわたしたちをキリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ 2,4-6)。イエス・キリストの中にあるということは、すでに天にあるということです。イエスのみ心の中にキリスト教の核心が示されています。キリストにおいて福音の革新的な新しさが私たちに示され、同時に与えられたのです。愛は私たちを救い、すでに神の永遠性の中に生きる者としてくれます。福音史家聖ヨハネは書いています。「神はその一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」 (ヨハネ3,16)。

神の心が私たちの心に呼びかけます。そして、私たち自身の殻から抜け出し、何も残すことなく私たちすべてを愛のいけにえとするまでキリストの模範に従い、神の中に全幅の信頼を置くために私たちの人間的な思惑を捨て去るようにと招いています。

「わたしの愛の中に留まりなさい」(ヨハネ 15,9)というキリストの招きがすべてのキリスト者のためであるなら、司祭の聖化のための日であるイエスの聖心の大祝日、特にアルスの聖なる主任司祭の死去150周年に際し、私自身が望んだ「司祭年」の荘厳な開始にあたる今晩、なおのことこの招きは私たち司祭のためのものとなるのです。

「カトリック教会のカテキズム」にも引用されている「司祭職はイエスのみ心の愛そのものです」というアルスの主任司祭の美しくも感動的な言葉が、おのずから今、私の心に響きます。私たち司祭は謙遜にまた権威をもって人々に奉仕するために司祭になったのだということを忘れてはなりません。司祭職は教会と世界のためになくてはならないものです。それはまた、キリストに対する完全な忠誠とキリストとの常なる一致を、さらに、聖ヨハネ・マリア・ビアンネがしていたように絶え間なく聖性へと向かう努力を必要とするのです。

親愛なる司祭の皆さん、この特別司祭年にあたって皆さんに宛てた手紙の中で、私はすべての司祭たち、特に主任司祭たちの模範でありまた保護者であるビアンネ神父の教えと手本にのっとり、私たち司祭の任務のいくつかの重要な要素を強調しました。私のこの手紙が、皆さんがイエスとの一致の中により成長するための助けまた励ましとなるよう心から願っています。イエスは神のみ国を広め、確固としたものとするため、ご自分の司祭である私たちの働きに期待しておられます。私は先の手紙を次のように締めくくっています。「アルスの主任司祭の模範に倣って、完全にキリストに属する者となりなさい。そうすれば、あなたがたも今日の世界にあって、希望と和解と平和の使者となることができるでしょう」。

私たちは「パウロ年」の間、特に使徒聖パウロに注意を向けてきました。何もあますことなく、全面的にキリストのものとなること。これこそ聖パウロの全生涯の目的でした。またこれはアルスの主任司祭の全司祭職の目的でもありました。「司祭年」の間、この聖人に特別な祈りを捧げましょう。これこそまた私たち一人ひとりの主要目標であるべきです。福音への奉仕を実現するために、入念かつ永続的な司牧的養成が確かに有益であり必要です。しかし、キリストの心からしか学べない「愛の知識」はもっと必要です。事実、キリストこそが、罪をゆるし、ご自分の名において群れを導き、その愛のパンを割くために、私たちをお招きになるのです。ですから、愛の源泉、十字架上で貫かれたイエスのみ心から私たちは決して離れてはならないのです。

こうして初めて「世界の心をキリストのものにする」という「天の御父の神秘的なご計画」に効果的に協力できるようになります。このご計画は、歴史の中で実現されます。 イエスは、イエスのすぐ近くにいるようにと召されている人々、つまり司祭たちから始まって、徐々に人々の心の心となっていきます。そして、叙階式において宣言し、毎年聖木曜日の聖香油のミサ中に更新する「司祭の誓約」に忠実であるよう私たちに注意を促します。

私たちのいたらないところ、限界、弱さすら、私たちをイエスのみ心に導くべきです。罪びとたちはイエスのみ心を観想して、イエスから彼らを天の御父にまで導く「罪の必然的な痛み」を学ぶべきです。これは司祭たちに対してなおのこと当てはめられるのです。キリストの身体である教会を最も苦しませるのは、その牧者たちの罪であり、特に「羊泥棒」となる者たちの罪であるということを忘れてはいけません (ヨハネ10,1)。彼らはその個人的な考えに従って正道を外れたり、または、罪や死の罠で羊たちを締め付けるのです。

親愛なる司祭の皆さん、私たちのためにも回心への呼びかけや神の憐れみへの懇願は必要です。同様に、救われるべき人々を恐ろしい滅びの罠から守ってくださるよう、謙遜に熱心にイエスのみ心に祈り求めましょう。

少し前に小聖堂にてアルスの主任司祭のご遺物、その心臓をあがめました。それは、神の愛に燃える心、司祭の尊厳を思い打ち震える心、「神を別にするなら、司祭はすべてです」と心打つ崇高な調子で信者たちに語っていた心です。彼自身天国でしか本当のことは分らないでしょう。
親愛なる兄弟たち、寛大さと尊敬をもって私たちの任務を果たすためにも、霊魂の中に真の「神の畏敬」を保つためにも、私たちも同じ感動を培いましょう。教会は聖なる司祭たちを必要としています。神の憐れみの愛を実感するよう信者たちを助ける司祭たち、神の愛を確信をもって証しする司祭たちを必要としています。

晩課の後に続く聖体礼拝において、司祭たち自身を司祭であるキリストに似たものとする「司牧的愛」ですべての司祭の心を燃やしてくださいと主に願いましょう。

聖母マリアがこのお恵みを獲得してくださいますように。明日、生き生きとした信仰をもって、その汚れなき御心を観想します。アルスの聖なる主任司祭は聖母マリアに子のような信心を養っていました。彼はすでに1836年、無原罪の御宿りの教義が信仰箇条と宣言される以前に、その小教区を「罪なくしてやどられた」聖母マリアに奉献していました。そして聖母マリアへのこの小教区の奉献をしばしば更新していました。ビアンネ神父は信者たちに、聖母は特に私たちが幸せであることを望んでおられるのだから、「祈りを聞き入れていただくためには聖母に向かうだけで十分です」と教えていました。

今日から私たちが始める「司祭年」にあたり、主によって私たちの司牧に託された信者たちの、堅固で照らされた導き手となれるよう私たちの母、聖母マリアの保護を祈りましょう。







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