2009-07-07 16:43:33

教皇ベネディクト16世回勅「カリタス・イン・ヴェリターテ」要旨


「キリスト自身が身をもって証された『真理における愛徳』」は、「各個人、そして人類全体の真の発展のための最も基本的な推進力です」。教皇回勅「カリタス・イン・ヴェリターテ(仮訳:真理における愛徳)」は、このように始まっています。同回勅はカトリック信者たちだけではなく、善意あるすべての人々にも向けられています。
教皇は回勅の導入部分で「愛徳こそ教会の社会教説の中核をなすものです」と述べています。また、誤解や実際生活からかけ離れるという危険を伴うため、愛徳は真理と共にあるべきです。「真理を抜きにした愛徳のキリスト教は、社会的共存には役立ちますが、単なる善意ある皮相的な感情と容易にすりかえられ得る」ということにも注意を促しています。(1-4)
「発展には真理が必要です」。教皇は「真理抜きにしては、社会的活動は社会にとって有害な個人的な利益の追求や権力の支配に陥る危険がある」と主張しています。(5)
教皇ベネディクト16世は、「真理における愛徳」という原理に由来する「倫理的行動に関する二つの指針的基準、正義と共通善」に注意を促しています。すべてのキリスト者は社会的な生活の中で示される制度を通じても愛徳へと呼ばれています。(6-7)
またさらに、教会は「技術的な解決策」を提示するという目的ではなく、「人類の尊厳とその召命に適った社会」のために「果たすべき真理の使命」を持っているのだとも主張しています。(8-9)

回勅の第一章では、教皇パウロ6世の回勅「ポプロールム・プログレッシオ」の教えが扱われています。
教皇は言っています「永遠の生命に向かう視野なしでは、この世での人類の発展は行き詰まってしまいます」。神なしでは、発展は否定され、「非人間的なもの」となるのです。(10-12)
教皇パウロ6世は「自由と正義にのっとった社会の建設のために不可欠な福音の重要性」を強調しました。(13)
また、同教皇がその回勅「ウマーネ・ヴィーテ」の中で強調する「生命倫理と社会倫理の間にある繋がり」を、「教会は今日もまた力をこめて指摘します」。(14-15)
教皇は「ポプロールム・プログレッシオ」の中に見られる召命の意味について説明しています。「発展は召命です」なぜなら「超越者からの呼びかけに由来するからです」。ですから、それが「各人と人類全体の促進に向けられるなら全面的なものとなる」と教皇は強調します。また、次のようにもつけ加えています。「キリスト教信仰は特権や権力に頼ることなく、ただキリストによってのみ発展を追求するのです」。(16-18)
教皇は「低開発の原因は第一に自然によるものではなく、それは何よりもまず意志、思想の問題であり、何よりもさらに人々の間、民族間の兄弟愛の欠如に起因する」と明らかにしています。
「よりグローバル化された社会は、私たちをお互いますます近いものとしますが、兄弟とはしません」。ですから、経済が完全に人間的な結果に向けて発展するよう、活動を開始する必要があるのです。
(19-20)

回勅の第二章で、教皇は現代における人間的発展についての問題に入ります。
最終目的としての共通善なしの単なる利益のみの追求は、富を破壊し貧困をつくり出すだけだと教皇は言います。教皇はさらに、いくつかの発展のゆがみをも列記しています。
また、このような諸問題を前にして「新たな人道的な解決策」を求めています。「危機は私たちに新たな歩みを再び打ち出すよう義務付けます」。(21)
教皇は言います「発展は今日、多様性に満ちています」。「世界的なレベルでの富は、絶対的な意味では増加しています。しかしその分配の不均衡も増加しているのです。腐敗は豊かな国々にも貧しい国々にも存在します。時には国際的な大企業も労働者たちの権利を尊重していません。一方で「国際的な援助も、しばしば寄贈者や受け取り側の無責任のためにその目的からはずれています」。 
「特に医薬部門において、あまりにも厳格な知的財産権の主張において豊かな国側に極端な保護対策が見られる」と教皇は訴えています。(22)
「発展に関するグローバルな再検討」を要求した教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉も思い起こされ、こうした再検討がいまだ「部分的に実現されただけである」と指摘。今日「国家の公的権力」の役割について新たな評価が見られる一方で、さらに市民社会の国内および国際政治への参加が望まれています。
教皇はまた、豊かな国々が低価格な製品を確保するために、貧しい国々の生産力を利用していることにも注意を促しています。教皇は言います「このようなやり方は労働者たちの権利を危険に陥れ、社会的な安定性を崩しています」。
教皇は治政者たちに思い起こさせます「保護すべき価値ある第一の資本は人間そのもの、それぞれの人の人格全体です」。(23-25)
文化面においては、相互影響の可能性は対話の新たな展望を開きはしますが、それまた二重の危険性をも孕んでいます。その第一はあらゆる文化を「本質的に同等」と見る文化的折衷主義です。もう一つの危険は「文化的平均化」「生活スタイルの同質化」です。(26)
次に世界の飢餓問題に目を向けた教皇は、「この危機に十分に立ち向かえる経済制度」が整っていないことを指摘。改良された技術と伝統技術を合わせて農業生産に新しい可能性を与える必要と、発展途上国における公平な農業改革を訴えています。(27)
教皇ベネディクト16世は、生命に対する尊重を人々の進歩発展の問題と切り離してはならないことを強調します。世界中の様々な国々で産児制限が実行されています。あるところでは「堕胎が強制されるほどにまでなっています」。一方、発展した国々では「子供を生まないというメンタリティーが広まっています。そしてさらにしばしばそれがあたかも文化的な進歩のしるしでもあるかのように、他の国々にも伝達しようとされています」。また非常に憂慮されることは、「安楽死の法制化」です。「生命の否定または停止の方向に向かう社会は、真の人間の善に奉仕する力も理由も見出すことができなくなるだろう」と教皇は警告しています。(28)
発展に関係するもう一つのテーマは、信教の自由の権利です。暴力は「真の発展を阻止する」と教皇は記します。これは「原理主義に基づくテロリズムについて言えることです」。同時に多くの国々の無神論に向かう動向は「人間的・霊的な力をそぐことによって、人間の発展の必要性に対抗するものです」。(29)
発展のためには、愛徳のもとに調和を得た様々なレベルでの知識的な相互影響が必要です。(30-31)
現行の経済上の優先策は、すべての人々の就業対策であり続けて欲しいと教皇は期待しています。 
教皇はまたある国により大きな国際的競争力をもたらすために、労働者たちの権利のレベルの低下を招く「視野のあまりにも短い経済」に警告を発しています。環境問題をも含め、発展スタイルの機能上の問題点を訂正していくよう、教皇は奨励しています。グローバリゼーションについて「真理における愛徳なしには、この全地球的な動きはこれまで知られていなかった害や新たな分裂をもたらす危険を孕んでいる」とし、「これまでなかったような創造的な働き」が必要と述べています。(32-33)

回勅の第三章のテーマは「兄弟愛、経済発展、市民社会」です。この章はしばしば忘れ去られている恵みの体験の賛美から始まります。
経済は道徳的影響から自立したものとの思い込みは、人間に金融手段を破壊的な方法で悪用するよう押し進めました。発展が「真の意味で人間的であるために」は、「無償の原則に場を与えなければなりません」。特に市場に関して「連帯精神、相互信頼なしに市場は本来の経済的働きを十分に果たすことはできません」と述べると共に、「市場は自分のことだけを考えているわけにはいきません。他の物事からも道徳的な力を汲み取る必要があります。市場は強者が弱者を蹂躙する場となってはなりません」と記しています。
市場原理は共通善の追求獲得でなければなりません。教皇はまた、市場は自然を否定するものであってはならないと注意し、人間の倫理的良心と責任を強調しています。
さらに、現代の危機は、透明性、正直、責任といった伝統的な社会道徳原理をおろそかにしてはならないことを示したと教皇は指摘。経済における国家の役割、ふさわしい法制化の必要に触れています。教皇ヨハネ・パウロ2世の回勅「新しい課題・教会と社会の100年をふりかえって」を引用しながら、市場、国家、社会の「3つの要素の必要」を示し、「経済の文明化」「経済的連帯」を呼びかけています。(35-39)
現代の危機は、企業に大きな変化を要求するものでもあります。その経営はオーナーのたちの問題だけではなく、その地域共同体の問題でもあります。教皇は「しばしば株主の指示のみに答える経営者」に対し、金融資産の投機的利用を避けるように招いています。(40-41)
この章の終わりには、グローバル化を単なる「社会・経済的プロセス」と見なさない、新しい位置づけが示されます。教皇は、人々がグローバル化の「犠牲者ではなく、良識のもとに愛と真理に導かれた主役となる」ことを望まれています。グローバル化にはその機能改善のための文化的な指針が必要と述べる一方、大きな富の分配の可能性に触れ、豊かさの広がりが自己中心的、保護主義的な計画によって止められることがないようにとも述べています。(42)

第四章では、回勅は人々の発展、権利と義務、環境などのテーマに触れています。豊かな社会が贅沢への権利を要求する一方で、発展途上にある地域では、食糧や水にも事欠いており、「個人の権利は義務の論理から切り離され」、「常軌を逸しています」。権利と義務は、倫理的な基盤に再び立ち返るべきです。これに対し、もし「人々の話し合いにのみ、権利と義務の基盤を求めるなら」その基盤はその都度変わってしまう可能性があります。政府と国際組織は、権利における「客観性および、勝手に取り扱うことのできない性質」を忘れることはできません。(43)
教皇は発展における義務と権利を考える上で「人口増加との複雑な関係」に注意を向け、「人口の増加を低開発の第一の原因と見なすのは正しくない」と述べています。また、性を「純粋な快楽主義的なもの」におとしめることはできず、出生率を強制的・計画的に低下させる物質主義的政策で性を規制することはできないと記します。(44)
経済は、それを正しく機能させるための倫理を必要としています。それはどのような倫理でも良いわけではなく、まして人間に便利な倫理ではありません。同じく、人間の中心性は、常に受益者参加型の国際協力の「発展への取り組み」における主要な指針となるべきです。「国際組織は、『時にコストが高すぎる』自分たちの官僚機構の現実的効率について問いたださなければならない」と教皇は述べています。時に「貧しい人々は官僚組織の贅沢な暮らしを支えるのに必要」という傾向さえ確認されています。また、受け取った基金についても完全に透明性を持たせるべきです。(45-47)
この章の後半は、環境問題に言及しています。信者にとって、自然は神からの賜物であり、人間はそれについての責任を負っています。教皇はこのような観点からエネルギー問題に触れ、ある国家や権力者らによる「資源の買占め」を「貧しい国々の発展を著しく妨げる」原因として非難しています。よって、国際社会は「更新不可能な資源の利用を調整するための制度を設けるべき」であり、また「技術的に発展した社会は、必要なエネルギー量を削減し、代わりとなるエネルギーの開発を進めるべき」とも記しています。
そして、教皇は、世界の多くの地域が「快楽主義や消費主義的傾向にある」今、「新しい生活スタイルを目指してメンタリティーを変える必要」を訴えています。根本的な問題は、「社会の複雑な倫理的性質」にあるとし、「もし、命と自然な死に対する権利を尊重しないならば」人間の良心は「人間生態学の概念」と共に、環境生態学の概念も失うことになると書いています。(48-52)

第五章の中心は、人類家族の協力です。ここでベネディクト16世は、「人々の発展は、特に唯一の人類家族を見出すことにかかっている」と強調しています。さらに、「神が公の場に席を占めることができる時のみ」キリスト教は発展に寄与することができると記します。「個人の信教の自由の権利を否定する」政治の「抑圧的で攻撃的」な性質を指摘すると共に、「世俗主義と原理主義においては、理性と信仰の間の実り多い対話が妨げられる可能性」を危惧、この亀裂は「人類の発展に大きな障害をもたらす」と述べています。(53-56)
続いて、教皇は自治を通して人々に届けられる援助の「補完性の原則」に触れます。補完性は「あらゆる形の温情主義的な援助に対する最も効果的な対抗策」であり、援助を人間的でグローバルなものにすることができます。国際援助は「時に人々を依存状態に置く可能性があり」、それゆえ、政府だけでなく市民社会の必要に沿った供給が必要です。実際、援助が発展途上国のある一部の生産物の市場を開拓するだけで終わってしまうことがよくあります。(57-58)
豊かな国々に対しては、国内総生産からできるだけ多くをそれぞれの課題を尊重しながら発展のために使用するよう促しています。特により多くの人に教育、特に人間育成、倫理教育の機会を与えるよう勧めています。倫理的基盤を持たない相対主義は、人々の貧しさを増すだけであると指摘。これに関連して、性的な目的を持った観光を挙げ、時に地元自治体の保証や、当事者たちの沈黙、業界関係者の共犯によって横行するこうした現象を悲しむべきものとして非難、経済発展と道徳の間にある歪みを注視しています。(59-61)
教皇はさらに歴史的ともいえる移民現象に言及、「移民問題に一つの国だけで対応することはできない」と述べています。移民一人ひとりは、人間としてあらゆる状況においてその権利を尊重されるべきです。教皇は外国人労働者が物的に扱われることがないよう呼びかけつつ、貧困と失業の関係を指摘。すべての人が仕事を持つことができるよう願われると同時に、労働者の権利が守られていない国々に注意を促しています。(62-64)
その間違った運用によって経済に打撃を与えた金融が、発展を目的とした手段としての存在に立ち返る必要を説き、「金融関係者は自身の活動に倫理的基盤を見出さなければならない」とアピールしています。(65-66)
この章の終わりで、教皇は国連の「緊急の改革」と、世界経済の再構築に触れ、「支援と連帯の原則にかなった」「真の国際政治の権威的存在」とその「効果的な力」の必要を訴えています。(67)

最終章である第六章では、人々の発展と技術がテーマになっています。教皇は技術の才能を利用し自分たちを再び創造したいという人類の要求に注意を向けながら、技術には「絶対自由」はないと警告、「グローバル化の進展は、技術をイデオロギーに代わるものとするかもしれない」とも述べています。(68-72)
また、技術発展と関連して、コミュニケーション手段が「個人と人々の尊厳」を推進する上で重要となることを指摘しています。(73)
技術の絶対と倫理的責任の間にある人間の文化的闘争で第一線にあるものとして、教皇は生命倫理問題を挙げ、「信仰の無い理性は自分の全能という幻想に陥る」と記しています。また、社会問題は「人間学的問題」となると述べ、ヒト胚やクローン化をめぐる実験は、「すべての神秘は明らかにされた」と考える「現代文化によって推進されたもの」と遺憾を表しています。また、教皇は優生学的な出産調整についても憂慮しています。(74-75)
そして「発展とは、物的発展だけでなく精神的成長を伴なわなければならない」と述べ、「人類の出来事を物質的に見ることを超える」ために「新しい心」が必要としています。(76-77)

回勅の結びで、発展は、「愛と赦し、自己放棄、他人の受け入れ、正義と平和」のために「両腕を神に上げて祈るキリスト者たち」を必要としていると記しています。(78-79)
 







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