2009-06-25 18:24:31

キリストの聖体の大祝日:教皇ミサ・説教(2009.6.11)


教皇ベネディクト16世は、11日、キリストの聖体(コルプス・ドミニ)の大祝日の宗教行事として、ミサと、聖体行列、聖体降福式をとり行われた。

この日、ローマの聖ヨハネ大聖堂で行なわれた教皇によるミサの説教は以下のとおり。

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「これは私の身体、これは私の血 」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
この言葉はイエスが最後の晩餐の席で言われた言葉です。聖体のいけにえが捧げられるたびに繰り返される言葉です。先ほど聖マルコによる福音の中で聞いたこの言葉は、今日、キリストの聖体の大祝日に特別な響きを持っています。この言葉は、最後の晩餐が行われた高間へと私たちを導き、あの夜の霊的な雰囲気を生き生きと追体験させてくれます。ご自分の弟子たちと過ぎ越しを祝いながら、主は翌日十字架上で捧げられることになる犠牲を前もって神秘の中に完成されたのです。聖体の制定はこうして私たちの目にはイエスが前もってご自分の死を受諾されたこととして現れます。これに関して、シリアの聖エフレムはこう書いています。「最後の晩餐において、主は自分自身をいけにえとして捧げましたが、十字架上では彼は他の人々からいけにえとされたのです」。

「これは私の血」。この言葉の中に明らかにイスラエル民族のいけにえに関する用語との関連が見られます。旧約時代の儀式では決して完全に実現することのできなかった贖罪が実現する、真の決定的ないけにえそのものとして、イエスは自分自身を示しています。この表現に、非常に意味深い他の二つの表現が続きます。イエスはまず、イザヤ預言書に見られる神の僕の歌に関連つけながら、ご自分の血は「多くの人々のために流される」と言われます。「契約の血」という言葉を加えることでさらに、イエスはその死のおかげで神とその民の間に交わされた契約がとうとう有効になったということを明らかにしています。古い契約は、今日のミサの第一朗読で読まれたとおり、シナイ山上で動物をいけにえとすることによって締結されました。エジプトの奴隷制から解放された民は、主から授けられた掟をすべて遵守すると約束しました。

しかし、イスラエルの民は、あの金の子牛の偶像の製造からもわかるとおり、神との約束を忠実に守れないことをすぐに示したばかりではなく、生命の道を教えるべく与えられた律法を、彼らの石のように硬い心でしばしば逸脱していきました。しかし、主は約束を違えることなく、預言者たちを通じて契約の内的な面を思い出させ、新しい契約を信者たちの心の中に書き記すだろうと告げました(エゼキエル36,25-27)。まさしく最後の晩餐の最中、イエスはこの新しい契約を過去に行われたように動物をいけにえとすることによってではなく、「新しい契約の血」となったご自分の血をもって弟子たちと締結しました。

ヘブライ人への手紙から取られた第二朗読においてこのことが強調されています。その中で聖なる著者は、イエスは 「新しい契約の仲介者」(9,15)であると明言しています。イエスはその血のおかげで仲介者となりました。もっと正確に言うならば、その流血に完全な価値をもたらした自己犠牲によって、仲介者となったのです。 十字架上でイエスはいけにえであると同時に、それを捧げる司祭でもありました。イエスはいかなる穢れもしみもない神にふさわしいいけにえであり、また同時に聖霊の導きによって自分自身を捧げ、全人類のためにとりなしをする大司祭でもありました。十字架は「死んだ業」つまり罪から私たちの良心を清め、私たちの心の中に新しい契約を刻みこむことによって、私たちを聖化してくれる愛と救いの神秘です。聖体は、十字架のいけにえを再現することによって、私たちが神との交わりを忠実に生きることができるようにしてくれるのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さんに、心からの挨拶を送ります。シナイ山に集った神の民のように、今晩、私たちもここで神への忠誠を新たにしましょう。数日前、毎年恒例のローマ教区会議開会に際し、教会として、祈りの中に常に神のみ言葉に耳を傾けることの重要性を強調しました。聖書の研究をし、特にいわゆる「レクチオ・ディビーナ」、神のみ言葉を祈りの中に読み黙想することの必要性を思い起こさせました。その後、この私の提案に関して、教区の多くの場、小教区、神学校、修道院、信心会、様々な教会運動などにおいて、いろいろな動きが始まっていると聞きました。彼らは皆、私たちの教区共同体を霊的に豊かにしてくれます。

親愛なる司祭の皆さん、私は特別な挨拶をあなた方に送ります。キリストは皆さんを、世の救いのための賛美のいけにえとして、キリストと共に生きることができるようお選びになりました。大聖グレゴリオは言っています。「私たちがキリストの御身体と御血に参与することは、私たちが受け取るもの、そのものになることだけを目指しています」。もしこのことがすべてのキリスト者のために真実なら、私たち司祭にとってはなおのこと真実です。自分自身が聖体の秘跡となること、これこそが私たちの絶えざる願望であり、努力目標であるべきです。それは私たちが祭壇で捧げる主の御身体と御血の奉献に私たちの生活の奉献が伴うためなのです。私たちをキリストのふさわしいしもべ、その喜びの証人としてくれるあの自由で清い愛を、毎日、主の御身体と御血から汲みとるようにしましょう。これこそ信徒たちが司祭から期待していることです。聖体に対する真の信心、長い沈黙の時間、あのアルスの主任司祭がしていたように、イエスの前での礼拝の手本を信徒たちは見たいのです。もうすぐ始まる「司祭年」の間、アルスの主任司祭ビアンネを特に思いおこしましょう。

聖ヨハネ・マリア・ビアンネは信者たちによくこう言っていました。 「ご聖体に近づいてください。皆さんがそれにふさわしくないとしても、皆さんにはそれが必要なのです」。
罪のためにふさわしくないということを自覚しながらも、聖体の秘跡において主が与えてくださる愛に養われることを必要としている私たちは、今晩、聖体の中に現存されるキリストに対する私たちの信仰を新たにしましょう。

今日、教会内にも世俗化の危険があります。それは聖体への崇敬を形式的な内容のないものにしてしまう可能性があるのです。典礼に対する尊敬を通して表明されるべき心からの参加が欠けたり、日常の忙しさと地上の心配事に追われ、祈りが性急で表面的なものになる危険を常にはらんでいるのです。

もうしばらくしたら、私たちは「主の祈りを」唱えるでしょう。その時、もちろん毎日の糧のことを考えながら 「今日私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈ります。けれどこの願いには実は何かもっと奥深い意味が含まれているのです。ギリシャ語で言う「epioúsios,」は、普通「日毎の」と訳されますが、より崇高な意味、「来るべき世の」という意味をも含んでいます。ですからある教父たちは、ここに聖体、ミサにおいて私たちに与えられる永遠の生命のパンを見ていました。それは、もう今から来たるべき世界が始まるためなのです。ご聖体によって天は地上に降りてきます。神の未来の世界はすでに現在になり、時間は神の永遠性に包まれるのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、毎年行われているように、ミサの後、伝統的な聖体行列が行われます。祈りと賛歌をもって聖体の中におられる主に祈りを捧げましょう。ローマの町全体をあげて、主に言いましょう。「イエスよ、私たちとともにお留まりください、私たちにあなたのお恵みをください。永遠の生命のために、私たちを養うパンを私たちにお与えください。良心を汚す悪と暴力と憎しみの毒からこの世界を解放し、あなたの憐れみの愛によって浄化してください。 聖母マリアよ、あなたはその全生涯にわたって「聖体」に生きました。永遠の生命のパン、神の不死の妙薬であるキリストの御身体と御血に養われ、天の目的地に向けて一致して歩み続けるよう、私たちを助けてください。アーメン







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