2009-04-13 13:55:25

2009年復活祭:教皇メッセージ


親愛なるローマと全世界の兄弟姉妹の皆さん

聖アウグスティヌスの言葉をもって、皆さんにご復活のお喜びを申し上げます。「主の復活は、私たちの希望です」 (アウグスティヌス・説教261,1)。この言葉を通して偉大なる司教は信者たちに、イエスは復活されたのは、私たちがたとえ死ぬ運命にあっても、死によっていのちが完全に終わってしまうと考えて絶望しないためであったと説明しました。キリストは私たちに希望を与えるためによみがえったのです。

事実、人間の存在そのものを悩ませる最も大きな疑問の一つは、「死後に一体何があるのだろうか」という疑問です。この謎に対し、今日の大祝日は、死ですべてが終わるのではないという答えを私たちに与えてくれます。なぜなら最後に勝利を博すのはいのちだからです。

私たちのこの確信は、単なる人間的な思考によるものではありません。歴史的な一つの信仰の事実によるのです。イエス・キリストは十字架上で死に葬られ、栄光の身体をもって復活しました。イエスが復活したのは、私たちもまた彼を信じることで、永遠のいのちを得るためでした。この告知は福音のメッセージの中心です。
聖パウロは次のように力強く宣言しています。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。さらに彼はこう言います。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリント 15,14.19)。

復活の日の朝から、希望の新たな春が世界を覆います。あの日から、もう私たちの復活は始まっているのです。なぜなら復活は単に歴史上の一時期をしるすだけでなく、新しい状態の開始でもあるのです。イエスが復活されたのは、ご自分の思い出が弟子たちの心に生き続けるためではなく、彼自身が私たちの中で生き、私たちもキリストにおいて永遠の生命の喜びを先立って味わうためなのです。

しかしながら、復活は理論ではなく、イエス・キリストという人間によって、彼の「復活」、彼の「過越し」を通して啓示された歴史的現実であり、それは地上と天上に「新しい道」を開くことになったのです(ヘブライ10,20)。それは神話でも夢でもなく、ユートピア幻想でも、おとぎ話でもなく、二度と繰返せない唯一の出来事です。ナザレのイエス、マリアの息子は、聖金曜日の夕方に十字架から降ろされて葬られ、勝利のうちに墓から復活しました。実際、土曜の翌朝、ペトロとヨハネは空の墓を見つけました。マグダラのマリアと他の女性たちは、復活したイエスと出会いました。エマウスの二人の弟子もイエスがパンを裂いたとき彼を認めました。復活したイエスは夕方高間にいた使徒たちに、そしてガリレアにおいて他の多くの弟子にも現われたのです。
主の復活の知らせは、私たちの生きる世界の最も暗い部分をも照らします。たとえばそれは物質主義や虚無主義などです。これらの考えは実験的に証明できる世界にのみとどまり、無だけが人間存在の到着点であるという慰めの無い考えに閉じもこっています。もしキリストが復活しなかったなら、「虚無」は優位を占めたことでしょう。キリストとその復活が無いなら、人間に救いは無く、その希望は幻に終わったでしょう。しかし、まさに今日、主の復活の知らせが力強くあふれ、コヘレト書にあるような懐疑主義者たちの疑問に答えます。「これこそ新しいと、何か言えることがあるのか。」(コヘレト1,10)そうです、私たちは答えます。復活の朝すべては新たにされたのです。
“Mors et vita / duello conflixere mirando: dux vitae mortuus/ regnat vivus”
「死といのちは闘った/驚くべき決闘を:/いのちの主は死んだが/しかし今、生きて、勝利する」。これこそ新しい知らせです!これを受け入れる人の存在を変える知らせです。それは聖人たちをも変えました。それは、たとえば、聖パウロをも変えたのです。

パウロ年を機会に私たちは何度か、この偉大な使徒の体験を黙想してきました。タルソのサウルは、キリスト教徒の容赦ない迫害者でしたが、ダマスコへの途上で復活した主に出会い、その時から彼は主に「征服された」のです。その後は私たちも知っています。パウロは後にコリントの信徒に書いたとおりの人となりました。「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生まれました」(2コリント5,17)。この偉大な福音宣教者を見つめましょう。彼は熱意と勇気ある使徒活動をもって、福音を当時の世界の多くの民族にもたらしました。彼の教えと模範が、主イエスに私たちが向かうよう促してくれますように。私たちが神に信頼するよう励ましてくれますように。なぜなら人類を毒しつつあった虚無感は、今や復活から来る光と希望に圧倒されました。今や詩編の言葉は真実、実際のものとなりました。「闇もあなたにとっては闇とは言えない。夜は昼のように明るい」(139,12)。すべてを覆うのはもう虚無ではなく、愛にあふれた神の存在です。それどころか、死の王国そのものも解放されました、なぜなら聖霊の息吹に押されて、冥界にもいのちの言葉は届いたからです。

もし死が人間と世にもう力を及ぼさないとしても、しかしながらその古い支配のしるしは、いまだたくさん残っています。もし復活を通して、キリストが悪の根源を完全に取り去ったのなら、人間はどんな時もいたる場所で、彼の勝利をその同じ武器をもって証明しなくてはなりません。その武器とは正義と真理、慈しみと赦し、そして愛です。このメッセージこそ、先日のカメルーンとアンゴラへの司牧訪問を機会に、アフリカ全大陸に私が伝えようとしたものです。人々は熱心な歓迎のうちに心を開いて私の言葉を聞いてくれました。アフリカは、実際、残虐で終わりを知らぬ闘争で計りがたい苦しみを受け、しばしば忘れられたその闘争は、多くの国を引き裂き傷つけ、その国民は飢餓や貧困、疾病の犠牲になっています。

この同じメッセージを私は聖地でも強く繰返したいと思います。数週間後、私は喜びのうちに聖地を訪れます。困難であっても不可欠な和解は、皆の安全と平和な共存の未来の前提となるものですが、それはイスラエル・パレスチナ闘争に対する、新たな忍耐強い、誠実な努力をなしでは実現不可能なものです。

聖地から、私たちの目はその周辺国、中東、そして世界に向かいます。現代の世界的な食糧不足、経済混乱、古くて新しい貧困、懸念される気候変動、暴力や生活苦によって生き残りのために自らの国を離れる人々、常にあるテロの脅威、拡大する明日への不安、こうした問題に希望の見通しを与えることが急務なのです。キリストの復活から始まった私たちのこの平和的闘いを誰も諦めてはなりません。繰返します。キリストは彼の勝利を同じ武器、正義と真理、慈しみ、赦し、愛をもって証しする人々を求めています。

Resurrectio Domini, spes nostra! 
キリストの復活は私たちの希望です!これを教会は今日喜びをもって宣言します。神がイエス・キリストを死から復活させたことで、より強く壊れない希望を告げるのです。教会は心に抱く希望を告げ、それをすべての人と、すべての場所で、特に信仰のために、あるいは正義と平和への奉仕ゆえに迫害されているキリスト者たちと分かち合いたいのです。教会は善への勇気を呼び起こす希望を、特にそれが犠牲を伴う時にも祈り求めます。今日、教会は「主が成し遂げた日」を歌い、喜びに招きます。今日、教会は希望の星、聖母マリアに祈ります。人類をキリストの聖心という、救いの安全な港へと導いてくださいますように。キリストは過ぎ越しのいけにえの子羊として「世を贖われ」、無実の方であるキリストは「罪びとの私たちを御父と和解させてくださいました」。勝利の王、十字架上で死に復活したキリストに、喜びをもって私たちのアレルヤを叫びましょう!

 







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