2009-04-11 18:58:23

受難の主日:2009年「世界青年の日」教皇メッセージ(2009.4.5)


「わたしたちは生ける神に希望を置いています」 (1テモテ 4,10)


親愛なる友人の皆さん

「枝の主日(受難の主日)」に、各教区レベルで「第24回世界青年の日」が記念されます。
毎年恒例のこの記念行事を準備しながら、昨年7月オーストラリアのシドニーで行われた、あの忘れがたい「世界青年の日」の出会いについて神に心からの感謝を捧げます。あの時、聖霊は、世界中から集まった無数の若者たちの生命を新たにしてくださったのです。「世界青年の日」の行事の間、若者たちが体験したあの大きな喜び、霊的な熱意は、キリストの霊がそこにいたという事実を雄弁に物語っています。そして、今、私たちは2011年にスペインのマドリッドで予定されている次回「世界青年の日」国際大会に向かって歩み始めました。この大会のテーマは、聖パウロのコロサイの教会への手紙の中から「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかりと守りなさい」 (コロサイ 2,7)という言葉が選ばれています。次回「世界青年の日」の集いを視野に入れ、2009年は、聖パウロの「わたしたちは生ける神に希望を置いています」(1 テモテ 4,10)と言う言葉を深く考察しながら、一緒に準備を始めましょう。そして、2010年には、裕福な青年がイエスに問うた「善い先生、永遠の生命を得るために私は何をしなければなりませんか」 (マルコ 10,17)という言葉について反省しましょう。


「若さは希望の時」

シドニーにおいて私たちの注意は、聖霊が、信者たち、特に親愛なる若者の皆さん、あなたたちに語りかけることに集中していました。閉会式のミサの中で、私は皆さんに全人類のために希望の未来を築き上げることができるよう、神の愛のメッセンジャーとなるために、素直に聖霊の導きに従うよう勧めました。希望という問題は、特に現代において、実は人間としての私たちの、さらに、キリスト者としての使命の中心にある問題です。しかし、皆に注意を促したいのは、私が回勅「希望による救い」でも強調したように、誰もが希望を必要としているとはいえ、希望なら何でもよいというわけではないということです。青年期は希望の時です。なぜなら、若者たちは様々な期待を込めて未来を見つめているからです。若い時には、皆大きな理想や夢、計画を育みます。また、青年期に人生における決定的な選択が熟すのです。だからでしょう、この時期に人生における最も重要な疑問が次々と湧き起こってくるのです。なぜ自分この地上に存在しているのだろうか、生きるとはどんな意味があるのか、私の人生に何があるというのか、などなど。そして、さらに、どうしたら幸せになれるのか、なぜ苦しみや病気や死があるのか、死後には何があるのだろう。勉学における困難、仕事がないこと、家庭内での無理解、友人関係また夫婦間の危機、病気や障害、今日の不況の結果としての経済的困難などの問題が重なるとき、先の様々な疑問はますます重くのしかかってきます。そこで疑問が生じます。希望の光をともし保つために、一体私たちはどこから力を汲み取ればいいのでしょう。


「偉大なる希望を求めて」

日々の経験からも分かるとおり、個人的な素質や物質的な富では私たちの魂が絶えず求め続けているあの希望を決して保証することはできません。回勅「希望による救い」の中でも書いたように、政治も科学も、技術も経済も、また他のあらゆる物質的な資源も、ただそれだけでは、すべての人々が憧れるあの大きな希望を提供するには不十分なのです。 全世界を抱き、そして私たちだけだは決して届くことのできないものをも与えられる神だけが、この希望であり得るのです。神を忘れ去ることの最も顕著な結果の一つは、今日の社会の特徴でもありますが、それは明白な方向性を失ってしまうということです。 それによって人は、孤独や暴力、不満足、信頼の喪失に苦しみ、そのまま絶望の淵に陥ることもまれではありません。これに関して神のみ言葉は強くまた明白です。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は、荒地の裸の木。恵みの雨を見ることがない」 (エレミヤ 17,5-6)。
希望に関する危機は、容易に若い世代を打ちのめします。それは彼らがまだ社会的にも経済的にも弱い立場にあり、彼らが立ち向かっていかなければならない様々な困難が、自分の力をはるかに凌駕するもののように思われるからです。親愛なる若い友人の皆さん、私は今、家庭生活に恵まれなかったり、正しい教育の不足や生活における否定的な体験などに傷つき、未成熟の結果としてすでに人生に失敗してしまった、皆さんと同世代の多くの若者たちのことを考えています。残念ながら、少なからぬ若者たちが逃げ道として暴力や麻薬やアルコールや、若者たち特有の他の危険に走って行きます。しかし、たとえ間違った道に踏み込んでしまったとしても、彼らの中に本当の幸福や真の愛に対する憧れがまだ完全に消え去ったわけではありません。けれども、これらの若者たちにどのように希望を伝えたらよいのでしょうか。私たちは、人間はただ神においてのみ自己成就が可能であることを知っています。まず私たちが第一に力を入れなければならないのは、若い世代の人々が愛そのものである神の本当の顔を再発見するのを助けることのできる、新たな形での福音宣教です。親愛なる若者の皆さん、私は聖パウロが迫害に苦しむローマの信者たちに書き送った同じ言葉を皆さんにも向けたいと思います。「希望の源である神が、信じることによるすべての喜びと平和であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださいますように」( ローマ 15,13)。
生誕2千年を記念するこの聖パウロ年にあって、私たちもキリスト教的希望の有効な証し人となることを聖パウロから学びましょう。


「聖パウロ、希望の証人」

様々な困難や試練に見舞われていた聖パウロは、その忠実な弟子テモテに「わたしたちは生ける神に希望を置いています」 (1 テモテ 4,10)と 書いています。 この希望は、彼の中にどのように生まれたのでしょうか。この疑問に答えるために、私たちはもう一度、ダマスコ途上でのパウロと復活されたキリストとの出会いにまで遡る必要があります。当時聖パウロは、皆さんのような20歳から25歳ぐらいの若者で、モーセの律法の信奉者であり、いかなる手段を講じてでも神の敵と戦う覚悟を決めていました(使徒言行録9,1)。キリストの弟子たちを逮捕するためにダマスコへ向かう途中、神秘的な光に幻惑され、彼の名を呼ぶ声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」。地に落ちたサウロはたずねます。「主よ、あなたはどなたですか」。声は答えます「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録9,3-5)。
この出会いの後、パウロの人生は完全に変わります。彼は洗礼を受け、福音の使徒となったのです。ダマスコへの途上でパウロは、キリストそのものにおいて出会った神の愛によって、内的に変えられました。彼は後に次のように書いています。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」 (ガラテヤ 2,20)。
こうして、パウロは迫害者から、証人、そして宣教師となったのです。そして小アジアやギリシャに多くのキリスト教共同体を創立し、あらゆる困難にも関らず、ローマでの殉教に至るまで、長い道のりを歩みとおしたのです。すべてはキリストへの愛のためでした。


「偉大な希望はキリストの中に」

パウロにとって、希望は単なる理想や感情ではありません。それは生きている一人の人格、神の子イエス・キリストなのです。この確信に満ちて、パウロはテモテに書いています。「わたしたちは生ける神に希望を置いています」 (1 テモテ 4,10)。「生ける神」とは、復活し、世界に現存するキリストご自身です。キリストこそ、真の希望です。私たちと共に、私たちの中に生き、同じ彼の永遠の生命に参与するように私たちを招かれるキリストです。もし私たちが一人ぼっちではなく、キリストが私たちと共にあり、さらにキリストが私たちの現在であり未来でもあるなら、なぜ恐れる必要があるでしょう。キリスト者の希望とは、キリストの約束に信頼して、自分たちの力にではなく、聖霊の恵みの助けによって、私たちの幸福として天のみ国と永遠のいのちとを望むことです。


「偉大なる希望にむかって」

親愛なる若者の皆さん、イエスがある日若いパウロに出会ったように、イエスは皆さん一人ひとりとの出会いを望んでいます。そうです。これは私たちの望みであるより先に、キリストご自身の熱い望みです。しかし、皆さんの誰かが「今日、どのようにしてキリストに出会うことができるでしょうか」と私に質問するかも知れません。むしろ「キリストはどのように私に近づかれるのですか」と尋ねるかも知れません。教会は、主に出会いたいという望みそのものが、すでにキリストの恵みの結果であると教えています。私たちが祈りの中に信仰を表明する時、たとえそれがはっきりとわかりにくいものであっても、その時私たちはすでに主と出会っているのです。なぜなら主ご自身が私たちに出会いに来てくれるのです。聖アウグスティヌスが説明しているように、辛抱強い祈りはキリストを受け入れるために心を大きく開きます。「私たちの神、主は、私たちの願望を祈りの中に表明することを望まれます。こうして私たちは神が私たちに与えようとするものを受け入れることのできる者となるのです」 (書簡 130,8,17)。
祈りは私たちを希望の人とする聖霊の恵みです。祈るということは世を神に開かれたものとします。

皆さんの生活の中に祈りの場を作りなさい。一人で祈るのも素晴らしいことです。皆で一緒に祈るということはさらに素晴らしく有益です。なぜなら主の名において二人、三人が集まるところには、ご自分もその中におられると、主は保証してくださいました (マタイ 18,20)。
主と親しくなるために、いろいろな体験、グループや運動、出会いや、祈り、そして信仰において成長するための様々な歩みや方法があります。皆さんの小教区で典礼に参加してください。豊かな神の言葉と積極的な秘跡への参与によって、自分自身を養ってください。皆さんもご存知のように、キリスト者とキリスト教共同体の存在とその使命の極み・中心は、聖体の秘跡にあるのです。この救いの秘跡において、キリストは現存し、ご自分の御身体と御血を永遠のいのちのために私たちに霊的な糧として与えてくださるのです。 実に言葉では言い尽くせない神秘です。聖体を囲んで、キリスト者の大きな家族である教会は、生まれ、成長します。人は洗礼の秘跡によってこの家族の一員となり、赦しの秘跡のおかげで絶え間なく新たにされるのです。さらに、洗礼を受けた人々は、堅信の秘跡を通し、聖霊によってキリストの真の友人・証人として強められます。一方、叙階と婚姻の秘跡は、信者たちがこの世と教会において託された使命をそれぞれ果たすことを可能にします。そして、病者の塗油の秘跡は、病気や苦しみにおいて神の慰めを私たちに体験させてくれるのです。


「キリスト教的希望によって行動する」

親愛なる若者の皆さん、もし皆さんがキリストに養われ、聖パウロのようにキリストに深く浸って生きているなら、キリストについて語らずにはいられないことでしょう。そして、皆さんの友人や同年輩の人たちにキリストを愛させるために、キリストのことを知らせないわけにはいかないでしょう。キリストの忠実な弟子となることで、皆さんは使徒言行録が語るような愛に満ちたキリスト教共同体の形成に貢献することができるでしょう。教会はこの重要な使命のために皆さんに多くを期待しています。皆さんが出会う試練や困難に勇気を失わないで下さい。何事もすぐに手に入れたいと思う若い皆さんの性急な傾向に打ち勝ち、忍耐強く堅忍してください。

親愛なる友人の皆さん、パウロのように復活したキリストを証ししてください。自分の存在に意義を与える「偉大な希望」を求め続けている同年輩の人々や大人たちに、キリストを知らせてください。もしイエスがあなたたちの希望となったのなら、喜びと、霊的・使徒的・社会的な熱意をもって、他の人々にもそのこと伝えてください。キリストを心に住まわせ、キリストに信仰をもって応え、彼に完全に信頼した後、この希望を皆さんの周りに広めてください。皆さんの信仰を公にし、お金や、物質的所有、出世欲や上昇志向の罠を皆さんが見破ったことを示してください。偽のユートピアに惑わされないようにしてください。決して利己主義に負けないでください。かえって隣人のために愛を育み、真理と共通善への奉仕のために、皆さん自身とその人間的・職業的能力を提供してください。そしていつも「あなたがたが抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも答えられるように備えていなさい」(1 ペトロ 3,15)。 本当のキリスト者は、たとえどんな試練に遭遇しても、決して悲しんではいません。なぜならキリストの現存こそが、その喜びと平和の秘訣だからです。


「マリア、希望の御母」

聖パウロが皆さんにとって使徒的生活の歩みにおける模範でありますように。パウロはアブラハムの手本に従い、信仰と希望によってその生涯を絶えず養っていました。パウロはアブラハムについてローマの信者たちに宛てた手紙の中で書いています。「アブラハムは、希望するすべもなかった時に、希望を抱いて、信じ、多くの民の父となったのです」 (ローマ 4,18)。
多くの預言者やあらゆる時代の聖人たちによって形作られた希望の民の後に従い、私たちも神のみ国の実現に向けて前進を続けましょう。この歩みにおいて、希望の御母、聖母マリアは、私たちの霊的な旅路をいつも共にしてくださいます。イスラエルの希望を具現化し、世に救い主を与えた方、聖母マリアは、十字架の下に希望のうちに固く留まりました。聖母は私たちにとって手本でありかつ支えです。聖母は私たちのために祈り、多くの困難においても、私たちを復活されたキリストとの出会いの輝かしい暁に導いてくださいます。親愛なる若い友人の皆さん、私はこのメッセージを「海の星なる聖母」と題された聖ベルナルドの祈りをもって締めくくりたいと思います。「不安定なこの世にあって、様々な困難の嵐に揉まれ、道を見失うようなとき、荒波に飲み込まれたくなければ、この星をしっかりと見つめていなさい。誘惑の風が吹き荒れ、あなたを悩みの岩に打ち付けそうになる時、あの星を見つめ、マリアと呼びなさい。聖母の手本に従うなら、決して道に迷うことはないでしょう。彼女に祈るなら、決して希望を失いはしないでしょう。聖母を思うなら、誤りに陥りはしないでしょう。聖母にすがっていれば、滑り落ちることはありません。聖母のご保護の下で何も恐れることはありません。聖母の導きに従えば、決して疲れることもありません。聖母の保護のもと確かに目的地に到達できるでしょう」。
海の星なる聖母マリアよ、全世界の若者たちをあなたの子、神の子であるイエスとの出会いに導いてください。そして、あなたが彼らの福音への忠実と希望の保護者となってください。
親愛なる若者の皆さん、私は毎日皆さん一人ひとりのために祈りを約束しつつ、心からの祝福をおくります。


バチカンにおいて







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