2009-04-06 18:51:42

受難の主日と共に聖週間入り、バチカンで教皇ミサ


教会暦は5日、「受難の主日」を迎え、これと共に復活祭直前の一週間で、キリストの受難を記念する「聖週間」に入った。

「聖週間」の初日にあたる「受難の主日」は、「枝の主日」とも呼ばれる。イエスのエルサレム入城を記念するこの日は、民衆が歓呼のうちにイエスを迎え、その足元に服や木の枝を敷いたという福音書の記述を思い起こし、ミサの前にオリーブや棕櫚(しゅろ)の枝を掲げて宗教行列が行なわれる。

この日は、また「第24回世界青年の日(教区レベル)」が記念された。この日午前、バチカンの聖ペトロ広場でとり行われた教皇ベネディクト16世司式のミサには、ローマ教区の青少年はもとより、昨年、世界青年の日国際大会が開催されたオーストラリア・シドニーや、2011年の世界大会の開催予定地スペイン・マドリッドからの若者たちも参加した。

ミサのはじめに、教皇は広場のオベリスク前で人々が手にする枝々を祝別され、荘厳な聖歌の調べの中、聖職者、修道者、信者らの代表と共に、祭壇の設けられた大聖堂前まで行列を行なわれた。

教皇は説教で、イエスのエルサレム入城に歓喜の声を上げた人々がどう考えていたかは分からないが、私たちもイエスのメッセージ、彼がもたらす王国の真の意味を理解しているのだろうかと問われ、イエスの王国は十字架を通して入るものであるということ、またイエスの愛を自由に受け入れるすべての人に開かれているその「普遍性」を強調された。

「普遍性とは自分自身を超えること」と教皇は述べ、自分のためだけに生きる人生は虚しいが、自分を捨て去り、さらに大きな生、すなわち神にゆだねることで、私たちの人生は広がると話された。

そして、教皇は、自分自身から解放され、自分を与え尽くすことは、「愛」にほかならず、神に向かう道、愛という道は、まさしくキリストを通して出会う十字架の神秘、死と復活の神秘と同義なのであると説かれた。







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