2008-11-13 16:58:32

「私たちの世界の刷新のために、主よ、来てください」教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで12日、水曜恒例の一般謁見を行なわれた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は使徒聖パウロをめぐる考察として、パウロの説く終末論をテーマに取り上げられた。

教皇は、パウロがイエスの再臨について話すものとして、まずテサロニケの信徒への手紙1(4,13-18)を引用。ここでパウロは、主が来られる日を象徴的なイメージを用いて生き生きと描写している。教皇は同箇所に、「私たちの未来は主と共にある。信じる者にとって、私たちの人生はすでに主と共にあり、私たちの未来、永遠のいのちはすでに始まっているのである」という本質的なメッセージを読み取られた。

次にテサロニケの信徒への手紙2(2,1-3)でパウロは、終末の時に不法の者が現われること、主の日がすでに来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てることのないように注意している点を、教皇は指摘された。

また同箇所に続く記述でパウロは、共同体の中に怠惰な生活をしている者がいるが、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と諭していることに、教皇は注目。主の日を待つということはこの世の義務から免除されたということではなく、むしろ裁きの主を前にこの世での生き方に責任を持つことであると話された。

さらに教皇は、主の日を待つパウロの態度を表すものとして、フィリピの信徒への手紙を引用。この書簡を記した時、獄中にいたパウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」(1,21-22)と信徒らに書きおくっている箇所を挙げられた。

死を恐れないと同時に、キリストのように他人のために生きることで、神の御旨を完全に受け入れているパウロの姿を示しながら、神を完全に受け入れる人が持つ、真の内的自由を強調された。

そして、教皇は、主の日を待つキリスト者の基本的態度として、1.キリストは復活し、御父と共におられるように、いつもわたしたちと共におられると確信し、恐れない、2.キリストと共にいる限り、未来はあてのない闇ではなく、希望と勇気をもって生きるものである、3.主の裁きを前に、責任をもって生きると同時に、主の憐れみを信じる、3点をまとめられた。

考察の最後に教皇は、コリントの信徒への手紙1の末尾でパウロが唱える「マラナ・タ(主よ、来てください)」(16,22)という祈りを取り上げられた。

「主よ、来てください」と今日もわたしたちは祈ることができるでしょうか、と教皇は問いながら、世の終わりを誰も望まないことは確かだが、わたしたちは不正に満ちた世が終わり、愛の文明が始まり、暴力や飢えの無い、正義と平和の世界の訪れを望んでいると話された。

今日のわたしたちも緊急に主に祈る必要があると述べた教皇は、ダルフールやコンゴをはじめとする世界の難民キャンプに、麻薬に支配された場所に、神を忘れ自分のことしか考えない裕福な人々の間に、そしてわたしたちの心の中に、「主イエスよ、来てください!」と、熱い祈りを捧げられた。







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