2008-10-29 18:36:11

聖パウロの教説における十字架の中心的意味、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで29日、水曜恒例の一般謁見を行なわれた。

謁見中のカテケーシスで、教皇は使徒聖パウロを引き続きテーマとしながら、パウロの教説における十字架の中心的意味について考察された。

最初キリスト教徒の迫害者であったサウロ(パウロ)が、ダマスコ途上での回心によって、十字架にかけられたキリストの側に立つようになり、キリストこそが彼の人生の目的、その宣教生活の動機となった過程を教皇は思い起こされ、イエスとの出会いが彼に十字架の意味を明らかにし、イエスがすべての人、そして彼自身のために死に、復活したことを、パウロは理解するようになったと話された。

パウロは新しく得た生の中で、日を追うごとに神の救いが恵みであること、またそれが自分の功績でなく、すべてキリストの死から来るものであることを実感し、恵みの福音は彼にとって十字架を理解し説くための唯一の方法となっていったと教皇は指摘。

十字架はユダヤ人にはつまずきとなるもの、ギリシャ人には愚かなものと思われたが、失敗と苦しみ、敗北に見える十字架の中にこそ、神の無限の愛の力のすべてがあり、十字架は愛の表現なのであると強調された。

パウロは勇気を持って十字架のキリストを説いたが、十字架の神秘を人々から理解されない苦しみをも味わったと教皇は述べながら、ギリシャ人は純粋思想的立場から神が人間になり、十字架にかけられたということを信じがたいものとしたが、その論理は現代の人々にも共通していると話された。

神の愛は弱さの中に表れ、十字架が啓示する神の力は人間の力とは異なると説いた教皇は、パウロの「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1コリント1,25)という言葉を引用。

十字架を受け入れながら愛の謙遜の中に力を得て、自分のためでなく、人を愛され自らを犠牲にされた神への信仰のうちに生きるよう、信者らを招かれた。

謁見参加者らへの言葉で教皇は、福者ヨハネ23世教皇(アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ、在位:1958-1963)の出身地、北イタリア・ベルガモから訪れた巡礼団に挨拶をおくられた。地元司教に率いられたこのグループは、ヨハネ23世登位50周年を機会にローマを訪れており、前日28日夕には、聖ペトロ聖堂での記念ミサに参加した。教皇は、信者たちの心に今も息づくヨハネ23世の思い出に励まされ、皆が福音に熱心に従って生きることができるようにと祈られた。







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