2008-10-22 17:15:31

10月12日の列聖式:4名の聖人の紹介


教皇ベネディクト16世は、10月12日、バチカンで捧げられたミサの中で列聖式をとり行われた。

この儀式の中で、新たに聖人として宣言された4名の人となりは以下のとおり。

○ 聖ガエターノ・エッリコ神父
 (イタリア1791-1860、イエスとマリアの聖心宣教会創立者)
ガエターノ・エッリコは、1791年10月19日、イタリア・ナポリの郊外、セコンディリアーノの貧しい職人の家庭に生まれた。幼くして2人の司祭が教える小学校に通い、7歳で初聖体を許され、11歳で堅信の秘跡を受けた。14歳の時、最初カプチン会、次いでレデンプトール会に入会を希望したが、歳があまりにも若いと言う理由で双方ともあきらめざるを得なかった。18歳でナポリの教区神学校への入学を許可され、1815年、司祭に叙階された。司祭となったガエターノは祈りと償いの生活に励むと同時に、特に見捨てられた人々や不治の病の人々のための使徒職に励み、憐れみ深い父なる神に対する信仰を多くの人々の心に中に育んだ。
ガエターノは毎年、サレルノのパガーニにあったレデンプトール会の家に黙想のために通っていた。1818年の黙想会中、彼が祈っているとレデンプトール会創立者聖アルフォンソが出現し、新修道会創立の神の望みを伝え、そのしるしとして、まずセコンディリアーノに御悲しみの聖母に捧げた聖堂を建立するよう勧告した。多くの反対や妨げにも関らず、1830年、御悲しみの聖母に捧げられた聖堂は完成した。今日に至るまで巡礼者たちの列が途絶えることがない。
さらに数年後、同じパガーニの黙想の家の聖堂で、聖体の前で祈りにふけっている時に、主ご自身からイエスとマリアの聖心に捧げられた新しい修道会を創立するようにとの示現を受けた。
ガエターノが創立した新修道会は「イエスとマリアの聖心宣教会」と呼ばれ、1846年に聖座の正式承認を得た。聖ガエターノの霊的息子である聖心の宣教師たちは、創立者の精神に忠実に従いながら、イエスの聖心とマリアの穢れなき御心に表される神の無限の憐れみの愛を人々に伝えるべく、貧しい人々、疎外されている人々、不治の病に冒されている病人たちや囚人たちの間で、キリストの福音宣教に日夜励んでいる。


○ 聖マリア・ベルナルダ・ビュトラー修道女
 (スイス1848-1924、扶助者聖母のフランシスコ宣教修道女会創立者)

マリア・ベルナルダ・ビュトラー、本名ベルナは、1848年5月28日、スイス・アールガウ州の敬虔なキリスト教徒の家庭に生まれた。勤勉な農民である両親のもと、幼いベルナも明るく敬虔で自然を愛する元気な少女として育った。7歳の時に小学校に通い始め、1860年、初聖体を受け、聖体に対する篤い信心はそれからのベルナの生涯にわたる信仰生活の活力、支え、中心となった。14歳で初等教育を終えたベルナは家庭に戻り、両親を手伝い農業に励んだ。しかし、修道生活への憧れに抗しきれず、18歳で土地の修道院に志願者として入会したが、しばらくしてそれが神が自分をお呼びになっている場でないことを理解し、再び家庭に戻り、仕事と祈りの生活に従事した。1867年、主任司祭の勧めに従い、アルツテッテンのキリスト者の助けなる聖母フランシスコ観想修道院に入会。翌年、マリアの聖なる御心のマリア・ベルナルダという修道名を受け、正式にフランシスコ会修道女となった。しばらくして修練長に選ばれ、後、数回にわたり院長を務め、神のみ国のため愛と熱意の模範を示した。それはまた、彼女の将来の新しい使徒職、宣教地での活動を準備するものでもあった。修道院を訪れた南米エクアドルの司教の招きを、神からの招きと理解したマリア・ベルナルダは、教会からの正式許可を得て、6名の修道女と共に同国に向け出発した。当初マリア・ベルナルダはエクアドルでの新しい宣教活動をスイスの母院の管轄下で続けたいと思ったが、神の意思は別のところにあることを悟り、新たな修道会の創立に踏み切った。新修道会は「扶助者聖母のフランシスコ宣教修道女会」と呼ばれることになった。エクアドルで貧しい人々や見捨てられた人々のために多くの困難を乗り越えながら、キリスト教的愛徳の業に励んでいたマリア・ベルナルダと14名のその姉妹たちは、1895年、教会に対する激しい憎悪から始まった迫害によってエクアドルを追い出され、コロンビアに新しい宣教の地を求め移って行った。カルタヘーナの司教の招きに応じて同地に赴いたマリア・ベルナルダ一行は、女子病院の一角を与えられ、そこを中心として様々な慈善事業に励んだ。マリア・ベルナルダは30年間にわたり総会長の職にあったが、その引退後も真の謙遜と奉仕の指針をもって修道女たちを教化し導き続けた。1924年、カルタヘーナの病院で多くの霊的娘たちに見守られながら天の御父のもとに帰っていった。


○ 聖アルフォンサ・デル・イマコラータ・コンチェツィオーネ修道女
 (インド1910-1946、本名:アンナ・ムッタトゥパダトゥ、聖クララ会修道女)

聖アルフォンサ修道女は、1910年8月19日、インドのアルポーカラに生まれた。
蛇の突然の出現に驚愕した母親から早産児として生まれ、小さいアンナを意味するアンナクッチーという名前を与えられた。聖アルフォンサは、その誕生から十字架の印を刻まれた苦しみにあったが、その短い生涯に、十字架を通しての救いというキリスト教の主要神秘を具現した。
生後3ヶ月で母親を失い、アンナクッチーは幼年期を信仰深い祖父母のもとで過ごした。この幼年期は彼女にとって大変幸福な時であった。祖母はアンナクッチーに祈りへの愛と貧しい人々への奉仕の精神を教えた。このような敬虔な環境の中で育ったアンナクッチーは、すでに5歳の時、家族たちの夕べの祈りの先唱ができるほどであった。
1917年、初聖体を受け、後に、自分は7歳の時からもう自分自身のものではなく、まったく主のもの、神なる花婿の花嫁だったと霊的指導者に打ち明けている。
1920年、小学校の低学年を終了した時、アンナクッチーは祖母の家を離れ、母親が死の際に希望した通り母方の叔母に引き取られることになった。この叔母は祖母と異なり大変厳しい人で、何事につけても絶対的な従順と恭順を要求した。アンナクッチーはこの厳格な教育を真の謙遜の精神とキリストへの愛のために完全に受け入れた。
アンナクッチーの心の中には修道生活への召し出しが芽生え始め、生涯をキリストの花嫁として捧げ尽くしたいと望むようになったが、身柄のよい青年との結婚を希望していた叔母は強く反対した。美しい少女に成長していたアンナクッチーは、その容貌が醜くなれば誰も結婚を申し込むことも無くなるだろうと、激しく燃えるかまどに脚を入れ、ひどい火傷を負うこともあった。
しかし、様々の困難を乗り越えて1935年、フランシスコ・クララ会に入会し、シスター・アルフォンサと呼ばれるようになった。修練期開始後1週間で重い病気にかかり、行く先が危ぶまれたが、現在福者になっているカルメル会士エリア・チャバラ神父の取次ぎで回復し、1936年、聖女クララの祝日に誓願を宣立した。幼い頃自分の姉妹に打ち明けた「イエス様だけが私の唯一の花婿です」との言葉が、その日実現したのである。
イエスは彼女の霊的生活を十字架の苦しみを通して導かれることを望まれた。修道生活を通して多くの病苦に苦しんだが、すべての苦しみをイエスの十字架への参与として喜びをもって受け入れ、誰に対しても大きなキリスト教的愛徳を示し続けた。彼女は仲間の修道女たちにいつも「苦しみのない一日は私にとって失われた一日のようなものです」と言っていた。
1946年、シスター・アルフォンサは、清らかな微笑みと共に、キリスト教的愛に満ちた修道女としての思い出を残し、平安と喜びのうちに地上の旅を終えた。 
○ 聖ナルシーサ・ディ・ヘスス・マルティリヨ・モラン
 (エクアドル1832-1869、信徒)

ナルシーサ・ディ・ヘスス・マルティリヨ・モランは、1832年、南米エクアドル・ノボルの敬虔な夫婦の9人中第6子として生まれた。幼少時より神に対する愛と深い信心を心の奥底に育てられ、聡明で美しい少女として成長した。6歳で母親を失ったが、姉たちから読み書き、料理・裁縫を習い、特にギターの演奏や歌にその優れた才能を発揮した。早くから聖性への憧れが強く、しばしば近くの森の中に退き、神についての観想にふけるのを常としていた。いつもグアイアーボの木の下で祈りにふけっていたが、今日ではこの木の下に多くの巡礼者が後を絶つことがない。
1852年、彼女が19歳の時、父親が亡くなり、ノボルからグアヤキルに移り住んだ。1986年、さらにクエンカに居を移し、その後も神との一致の生活と祈りにより適した場を求めて、何回か住まいを変えた。その間、絶えず貧しい人々や病人たちを愛を込めて世話した。
1868年、霊的指導者であったフランシスコ会神父の勧めに従い、ペルーのリマに赴き、その地でドミニコ会修道院の在俗奉献女としての生活を開始した。主も彼女の聖なる生活に報い、数々の特殊な恵みを与えると共に、多くの試練においても神がどれほどその生活をよしとされているかをお示しになった。
1869年9月の終わり頃、高熱に襲われ、医師たちにはもう何もなす術がなかった。
同年12月8日無原罪の聖母の祝日、バチカン第一公会議が始まったその日の夜、ナルシーサは姉妹たちに「これから遠い旅路に出かけます」と言って挨拶した。皆は冗談と受け取ったが、その晩遅く、一人の姉妹が彼女の部屋から不思議な光と心地よい香りが漂ってくるのに気づき、他の姉妹たちを呼び寄せ、ナルシーサが天に召されたのを確認したのだった。37歳であった。
 







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