2008-06-26 17:36:48

聖マクシムスを考察、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで25日、水曜恒例の一般謁見を行なわれた。

謁見中のカテケーシスで教皇は6、7世紀の東方教会の修道者・教父、証聖者聖マクシムスを取り上げられ、その生涯と教えを紹介された。

真の神であり、真の人であるイエス・キリストにおける信仰を勇敢に証ししたことから、証聖者と呼ばれる聖マクシムスは、580年頃、パレスチナに生まれた。少年時代から修道生活を始め、オリゲネスなどの著作を通して聖書の勉強に励んだ。

エルサレムからコンスタンティノプルに移ったマクシムスは、異民族侵入の混乱のためさらにそこからアフリカへと逃れた。この地で彼はキリスト教の正統な教えを類まれな勇気をもって守ることになる。

当時、キリストの人的意思を否定し、キリストにはただ一つの意思、神の意思のみがあるというキリスト単意説があった。キリストが一つの意思しか持たないということは、一見良いことのように見えるが、マクシムスは意思のない人性は真の人性ではなく、意思のない人間は真の人間ではない、キリストが真の人間でないならば、それは救いの神秘を破壊してしまうことになるとすぐに気付いた。そして彼はキリストの完全な人性と同時に、キリストのペルソナの一致を擁護した。

アフリカで単意論に反駁していたマクシムスは、649年、教皇マルティヌス1世(在位649-653、聖人・殉教者)が召集したラテラノ会議に出席するためローマに呼ばれた。この問題に関する議論を禁止する東ローマ皇帝の勅令に対して、同教皇はキリストの神的・人的の2つの意思を擁護しようとした。

しかし、教皇マルティヌスはその勇気の代価として大きな犠牲を払わなければならなかった。教皇は病身にも関わらず逮捕され、コンスタンティノプルに連行された後、死刑判決を下された。やがてそれは流刑に変更され、クリミアに永久追放されたマルティヌス1世は、長い苦しみと辱めを受け、655年獄死した。

それから数年後の662年、皇帝の意に反して正統を貫いたマクシムスもまた、2人の弟子と共に裁判にかけられ、舌と右手を切断された後、傷に苦しみながら追放先で82歳で亡くなった。

こうして、マクシムスの生涯を振り返られた教皇は、同聖人の生き方と教えは、キリストの完全な存在を一切の妥協なく証ししたその勇気に今も燦然と輝き続けていると述べられた。
教皇はこの日の謁見前、聖ペトロ大聖堂の外部壁がんに新しく設置された聖ルイジ・オリオーネ神父(1872-1940 神の摂理の小さき業修道会創立者)の像を祝別された。

また、教皇は29日(日)に聖ペトロ・聖パウロの大祝日のミサを捧げ、その前日28日(土)の第一晩課の祈りをもって、使徒聖パウロ生誕2千年を記念する「パウロ年」を開幕することを予告された。







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