2008-03-21 13:52:20

主の晩さんミサ:教皇説教・抄訳(2008.3.20)


福音記者聖ヨハネは、最後の晩餐でイエスがその弟子たちの足を洗ったという出来事を、ほとんど典礼的な用語とも言える荘厳な言葉使いをもって始めています。イエスがこの世から永遠の神である御父のもとに帰る「彼の時」が到来したと表現しています。その時、イエスは人々を最後の最後まで愛されたとヨハネは記すことによって、十字架上でイエスの救いのみ業が完成されたことをも宣言しているのです。

ヨハネはイエスのこの出来事を書き記すにあたって、特別な意味を持つ2つの用語を使用しています。「移行する、過ぎ越す」という言葉と、「アガペ、愛」という言葉です。これらの言葉は、このイエスの出来事の意味を理解させ、同時にイエスの過ぎ越しについて語っています。十字架と復活です。十字架はイエスを高揚し、神の栄光へと上げます。この世から御父のもとへの「移行、過ぎ越し」です。しかし、この移行は、単なる場所の移動を指すだけではありません。この移行は、変容をも意味します。

十字架上で自分自身を犠牲にすることによって、イエスはまったく新しい存在のあり方に移行します。今、イエスは常に御父と共におられ、同時に人々とも一緒におられるのです。十字架は、処刑の行為から自己犠牲の行為、極限までの愛の行為に変容します。十字架は、愛によって、人間存在を神の栄光に参与するものと変化させるのです。イエスはこの変容にすべての人々をも引き連れて行きます。私たちも皆イエスと共に移行し、こうして人類の救いは成就するのです。

イエスの「時」の到来の過程の始まりは、弟子たちの足を洗うという預言的、象徴的な行為によって表現されます。イエスは、当時奴隷の仕事とされていた人の足を洗うという行為によって、聖パウロがフィリピの教会の信者たちに宛てた手紙の中の「キリスト賛歌」で歌われる、神のしもべキリストの姿を具体的に表します。イエスはご自分の栄光の上着を脱ぎ、人間という「手ぬぐい」を腰にまとい、しもべとなります。キリストは弟子たちの足の汚れを清め、神の食卓に連なることができるようにし、私たちをも、そのみことばと愛と自己犠牲によって、常に新しく清めてくれるのです。







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