2018-05-09 12:14:00

「洗礼を通して永遠のいのちに生まれる」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで5月9日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は復活祭後から続けている「洗礼の秘跡」をテーマにしたカテケーシスで、この日は洗礼の儀式の頂点、洗礼水を通して志願者が洗礼を授かる場面を考察された。

洗礼式の一連の流れにおいて、厳密な意味での「洗礼」のその時、司祭は「父と子と聖霊のみ名によって」志願者の頭に三度水を注ぎ(もしくは志願者の全身を三度水に浸し)、洗礼を授ける。

教皇は、「洗礼を行う」(ギリシャ語のバプティゼイン)という言葉が「沈める・浸す」という意味を持っているとおり、この儀式によって、新受洗者はキリストの過ぎ越しの神秘の中に浸されると話した。(参考:カトリック教会のカテキズム1214,1239 )

そして、その行為の意味を、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちは皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6,3-4)という聖パウロの言葉をもって説明された。

洗礼盤はキリストとともに過ぎ越す場所であると教皇は強調。そこでは、古い人は脱ぎ捨てられて(エフェソ4,22)、新しく創造され、古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる(2コリント5,17)と話された。

また、教皇は、エルサレムの聖チリロが新受洗者に「その時あなたがたは同時に死に、また生まれたのです。同じ癒しの波があなたがたにとって墓となり、また母となったのです」と説いた言葉を紹介。

墓にも、母の胎にもたとえられる洗礼盤のイメージは、洗礼時の単純な行為を通して、いかに偉大なことがなされたかを物語っていると話された。

わたしたちの両親が我々をこの世のいのちに生んだのならば、教会は我々を洗礼において永遠のいのちに再び生み、わたしたちは御子イエスにおいて神の子となった(参照:ローマ8,15 ; ガラテア4,5-7)と教皇は述べられた。

そして、水と聖霊から新しく生まれたわたしたち一人ひとりに対しても、天の御父は限りない愛をもって「これはわたしの愛する子」(参照:マタイ3,17)という声を響かせ、御父のこの声はわたしたちの全人生の歩みに寄り添い続けると語られた。

実際、洗礼とは「消えない霊印」であり、「たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはない」(カトリック教会のカテキズム 1272)ため、洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできないと話された。

洗礼は聖霊の働きによって受けた人を清め、聖化し、義とし、キリストにおいて皆一つの体となる (参照:1コリント6,11; 12,13)と教皇は述べ、洗礼によって受洗者が「キリストの祭司職、預言職、王職」にあずかることは、新受洗者の頭への聖香油の塗布に表されていると指摘された。

教皇はキリスト者の召命とは、聖なる教会において、キリストに一致して生き、その同じ奉献に参与し、同じ使命を行うことで、この世に、永遠に続く実をもたらすことであると話された。

 

 








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