2018-04-04 12:08:00

「ミサの閉祭と共に始まる、キリストを証しする務め」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで4月4日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

復活祭後、最初の一般謁見が行われたこの朝、ローマは時おり小雨に見舞われたが、会場の聖ペトロ広場は、多くの巡礼団で活気づいた。

教皇は、大聖堂前を彩る春の花々を指しながら、これらの花々はキリストの復活と、そのの喜びを象徴するものと語られた。

また、教皇はこの席で、巡礼者たちと声を合わせ復活祭の挨拶を、前教皇ベネディクト16世におくられた。

この日、教皇は、ミサ聖祭をめぐるカテケーシスで、「閉祭の儀」の部分を解説。これにより、ミサをテーマにした一連の考察を終えられた。

ミサは、司祭による「派遣の祝福」と会衆との「閉祭のあいさつ」によって閉祭する。

ミサが、十字のしるしと共に、父と子と聖霊のみ名によって始まったように、閉祭においても、三位一体の名において、十字のしるしをし、こうして典礼行為が締めくくられると、教皇は説明された。

ミサが閉祭すると同時に、そこから「キリスト者としての証しの務め」が始まると教皇は指摘。

「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉と共に教会を出たキリスト者は、家や、職場、日常生活の中に、神の祝福をもたらし、その生活を通して主の栄光を賛美する務めがあると述べた。

教会を出る時は、教会に入った時よりも、命と力にあふれ、キリスト教的証しへのよりいっそうの熱意に満ちていなければならないと話す教皇は、聖体を通してイエスを受けたわたしたちは、秘跡によって得たものを生活の中で表すよう招かれ、キリストの神秘に積極的に参与するという選択の中にミサは完成を見ると説かれた。

エウカリスチアを記念するとは、『エウカリスチア的な人となる』ことであり、それはわたしたちの中でキリストが働くままにし、キリストの考え、思い、選択を、自分自身のものとしていくことと、教皇は語られた。

教皇は、エウカリスチアの働きと実りについて、次のような点を指摘された。

聖別されたパンにおけるキリストの現実の現存(参照:「カトリック教会のカテキズム」1374)は、ミサで終わらず、聖体は、ミサに出席できなかった病人に持参するため、またパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝するために、聖櫃に保存される。実際、ミサ外に、個人または共同体で行なわれる聖体礼拝は、キリストのうちにわたしたちが留まることを助ける(参照:同1378-1380)。

ミサの実りは、毎日の生活の中で熟していく。エウカリスチアは、わたしたちのキリストとの一致を強めながら、わたしたちのキリスト者としての証しが信頼できるものとなるよう、洗礼と堅信において聖霊が与えた恵みを新たにする(参照:同1391-1392)。

また、エウカリスチアは、キリスト者が大罪を犯さないように守ってくれる。わたしたちが「キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られる」(同1395)。

エウカリスチアは教会をつくるゆえに、わたしたちが規則正しくエウカリスチアにあずかることは、キリスト教共同体との絆を新たにし、強め、深めることになる(参照:同1396)。

エウカリスチアは、他の人々、特に貧しい人々に奉仕させる。エウカリスチアは、キリストから兄弟たちへと向かうようにわたしたちを教え、キリストはその人々の中で、わたしたちから認められ、奉仕され、尊まれ、愛されることを待っておられる。(参照:同1397)。

教皇はこのようにエウカリスチアがもたらすものを説明されると共に、ミサ聖祭を再発見するこのカテケーシスを皆と一緒に歩めたことを神に感謝された。

 

 

 








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