2018-03-30 19:00:00

聖金曜日:主の受難の儀式、バチカンで


イエス・キリストの十字架上での死を記念する「聖金曜日」、教皇フランシスコは「主の受難の儀式」をとり行われた。

3月30日夕方、聖ペトロ大聖堂で行われた「主の受難の儀式」では、厳かな雰囲気のもとに、ことばの典礼と、十字架の崇敬、聖体拝領式が行われた。

儀式の始めに、教皇は祭壇前の床に伏し、沈黙のうちに祈られた。会衆もまた、ひざまずき、沈黙の祈りが続いた。

みことばの祭儀では、まず「イザヤ書」(52,13-53,12)の、「自らを償いの献げ物とし」「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」、主のしもべの受難と死の預言と、「ヘブライ 人への手紙」(4,14-16; 5,7-9)の、偉大な大祭司、神の子イエスが自らを犠牲にし、その苦しみへの従順によって完全な者となり、「ご自分に従順であるすべての人々に対し、永遠の救いの源となった」ことを説く箇所が読まれた。

続く「ヨハネ福音書」(18,1-19,42)の朗読では、イエスが捕らえられてから、尋問と死刑判決を受け、十字架上で死を遂げ、葬られるまでの出来事に人々は聞き入った。

説教を行った教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父は、イエスの十字架の下に聖母と共にいて、イエスの受難の証言者となった福音書記者聖ヨハネに注目。

聖ヨハネはイエスの受難と死を目の前で見ただけでなく、イエスの復活後、聖霊の光のもとに、これまで起きたすべてのことを見つめ、「成し遂げられた」(ヨハネ19, 30)と言ったイエスの最後の言葉の意味を理解した人であったと指摘した。

なぜ、わたしたちの教会やキリスト者の集う場所には常に十字架があるのか、十字架に対するこの際限ない集中はなぜなのか、と同神父は問いつつ、「神は愛(アガペ)である」(参照:1ヨハネ4,10)とヨハネが記したように、ただ十字架の上にのみ、神の自己奉献に至るまでの究極の愛を見ることができるからであると説いた。

カンタラメッサ神父は、今年開催される若者をテーマにしたシノドスに言及。この機会に、イエスに早くから従い、イエスの受難と死と復活を目撃したことで、完全に人生を決定付けられたこの若い弟子、ヨハネのメッセージから多くを汲み取るよう招いた。

そして、キリストが若者に何を期待し、若者は教会と社会に何を与えることができるかだけでなく、むしろ、キリストが若者に与えるものは何かを考えようと話し、イエスと共にいることで、満ちあふれる喜びと命を発見した聖ヨハネの人生を思い起こした。

説教に続いて、聖金曜日のこの儀式の特徴の一つである、盛式共同祈願が行なわれた。

後半の十字架の崇敬では、十字架を手にした助祭が祭壇に向かって歩みつつ、三回立ち止まり、その度、十字架を高く掲げ、世の救い主キリストがつけられた木の十字架であると述べ、人々を崇敬へと招いた。

祭壇手前で最初に十字架を迎えられた教皇は、頭を垂れ、十字架上のイエスに接吻された。

そして、これに枢機卿・司教、そして司祭・修道者・信徒の代表が続いた。

最後に、教皇は祭壇前で十字架を高く掲げ、会衆はひざまずき、沈黙の中に崇敬を表した。

聖金曜日にはミサが捧げられないため、この儀式の中ではパンとぶどう酒の聖別は行なわれないが、前日、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」で聖別された聖体を参加者は拝領した。

聖体拝領の後、人々は静かに解散した。

                                   








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