教皇フランシスコは、バチカンで2月14日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
朝から小雨が降り、冷え込んだこの日、謁見はメイン会場である聖ペトロ広場と、病者や高齢者のための会場、パウロ6世ホールをビデオ中継で結んで行われた。
謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、ミサ聖祭をテーマに、「ことばの典礼」の「福音朗読」と「説教」に続く、「信仰宣言」と「共同祈願」を考察した。
「福音朗読」と、それをふさわしい形で説明する「説教」に耳を傾けることは、神の民の霊的な権利に応え、神のみことばの宝を豊かに受け取ることであると教皇は強調。
主はミサの参加者、司牧者、信者、あらゆる年齢、状況の人に語りかけ、それぞれの心を叩き、慰め、呼びかけ、新しい命と和解を芽吹かせると話された。
それゆえ、教皇は説教の後の沈黙について、受け取ったみことばの種が心の中に落ちるのを待ち、一人ひとりがそれを考えることを可能にする時間であると述べられた。
この沈黙の後、参加者個人の信仰の答えが、「クレド」の形において「信仰宣言」される。
「信仰宣言」は、会衆全員で唱えられ、それは共に耳を傾けたみことばに対する共通の答えを象徴していると教皇は説明。
みことばを聞くことと信仰の間には生き生きとした結びつきがあり、実際、信仰とは人間の頭から生まれるのではなく、聖パウロが言うように「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(10,17)ものであると話された。
教皇はまた、信仰はみことばを聞くことによって養われ、それによって秘跡へと導かれるとも説かれた。
神のみことばに対する信者らの答えは、次に、教会と世界に必要なことを祈り求める「共同祈願」となって表現される。
助祭か朗読者によって一つずつ意向が読まれ、会衆は声を合わせ「主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください」と願う。
教皇は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15,7)というイエスの言葉を引用。
しかし、信仰の薄いわたしたちは、それを信じられるよう、主に自分の弱い信仰を助けてもらう必要があると話された。
祈りの意向において、世俗的な論理による要求や、自分のことだけを願うものは、その祈りが天まで上がっていくことはないと教皇は注意された。
神の民の祈りの意向は、教会共同体と世界の具体的な必要を代弁するものでなくてはならず、ただの形式的な祈りや、近視眼的祈りであってはならないと述べられた。
「言葉の典礼」を締めくくる「共同祈願」は、ご自分のすべての子らをいつくしまれる神の眼差しを、わたしたちも持つようにと招いていると教皇は語られた。
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