2017-12-20 13:26:00

「ミサは、開祭に遅刻しないことが大切」教皇、一般謁見で


教皇フランシスコは、バチカンで12月20日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

パウロ6世謁見ホールのステージには、モミノキやプレゼピオ(イエスの降誕場面を再現した馬小屋の模型)が飾られ、降誕祭を待つ喜びをかもし出していた。

謁見中、教皇は「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサの儀式の具体的な進行の考察に入られた。そして、この日は、ミサの開祭の儀の所作や言葉、その意味を確認された。

教皇は最初に、ミサは「みことばの典礼」と「感謝の典礼」から成り、この二つの部分が緊密につながり、一つの礼拝の行為を形成していると説明。この前後に導入としての開祭の儀、締めくくりとしての閉祭の儀が加わり、ミサの一連の流れとなると話された。

儀式は全体で一つのものであり、切り離すことのできないものであるが、よりよい理解のために、それぞれの場面を説明することで、信者らがこれらの聖なるしるしの意味を知り、ミサを完全に体験し、その素晴らしさを味わえるようにと願われた。

ミサは開祭の儀によって始まるが、教皇は、「入祭」、「回心の祈り」、「あわれみの賛歌(キリエ・エレイソン)」、「栄光の賛歌(グロリア)」、「集会祈願」と、その進行の一つひとつをたどりながら、この導入部の目的を、共に集った信者らが一つの共同体を形成し、神のみことばに耳を傾け、感謝の典礼をふさわしく祝えるようにすることにあると話された。

教皇はミサは十字架のしるしをもって、共同体として神の礼拝を始めるが、この開祭の儀に遅刻しないことが大切であり、むしろ早めに着いてミサのために心の準備をすることが望ましいと述べられた。

そして、時計を見ながら、説教の後に到着すれば、まだ間に合うと思うのは、良くない習慣であると注意を促された。

入祭の歌と共に、司式者である司祭や、奉仕者たちは行列をつくり聖堂の内陣に進み、祭壇に向かって礼をし、崇敬のしるしとして祭壇に接吻し、献香するが、これはミサがキリストとの愛の出会いであり、祭壇はキリストご自身の象徴であることを表していると教皇は解説。

共同体が祭壇の周りに集うのは、共同体の中心であるキリストを見つめ、キリストの近くにいるためであると話された。

そして、司祭の言葉と所作に合わせて、一同は「父と子と聖霊のみ名によって」十字架のしるしをする。教皇は、これによって信者らは、この典礼行為が三位一体の神の名のもとに行われることを意識すると述べられた。

十字架のしるしの大切さを説く教皇は、その意味や仕方を知らない子どもたちのために、十字架のしるしを正しくすることを早くから教えるようにと両親たちに勧められた。

十字架のしるしによって、わたしたちは自分の洗礼を思い起こすだけでなく、わたしたちのために人となられ、十字架上で死に、栄光のうちに復活されたイエス・キリストにおける神との出会いを、この典礼的祈りの中に改めて認識することができると述べられた。

次に、司祭は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と典礼的あいさつをし、会衆は「また司祭とともに」と答える。

教皇は、ミサがこうして対話の形式のうちに始まり、様々な音程の声や、沈黙と共に、すべての参加者が一つの霊に生かされ、一つのシンフォニーを形作っていく様子を示された。

生まれつつあるこの祈りのシンフォニーは、すぐに感動的な場面に差し掛かる。それは自分の罪を思うようにと、司祭が人々を回心へと招く場面であると教皇は指摘。

わたしたちは皆、罪びとであり、それゆえにミサの始まりにわたしたちは赦しを請うのであると話された。

この回心の祈りは、ただ犯した罪を思うだけでなく、それを神と兄弟の前で、謙遜と誠実さをもって告白するようにと招く。

聖体が、キリストの死から命への、過ぎ越しの神秘を真に現存させるものであるならば、わたしたちが最初にすべきことは、キリストと共に新しい命に復活するために、自分たちの死の状況を認識することではないだろうかと教皇は述べ、そのための回心の祈りの大切さを強調された。

 

 








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