2017-12-17 17:00:00

教皇「主の降誕を待ち、いつも喜び、祈り、感謝する」


教皇フランシスコは、バチカンで12月17日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

主の降誕を準備する「待降節」の第三主日は、「喜びの主日」と呼ばれる。

この日、教皇は集いの説教で、使徒聖パウロの「テサロニケの信徒への手紙1」(5、16-24)を取り上げ、聖パウロの説く「いつも喜ぶ」「絶えず祈る」「どんなことにも感謝する」ことを、主の降誕を待つための3つの態度として示された。

「いつも喜んでいなさい」 (1 テサロニケ 5,16)と聖パウロが言うように、たとえ物事が自分の思うように進まない時や、苦しみ、困難にある時、荒れ野のように不毛な現実に囲まれている時でも、常に心の奥底の喜びの中に留まっていることが大切と、教皇は話された。

そして、洗礼者聖ヨハネが「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言って示した、荒れ野の中の存在、すなわちイエスに対する確信の上に、わたしたちの喜びは成り立っているのであり、そのイエスは、人間に神の子としての尊厳と自由を取り戻させるためにこの世に来られたと語られた。

次に、メシアを待つこの喜びは、「絶えず祈る」ことを基礎としていると教皇は述べ、祈りを通してこそ、わたしたちは真の喜びの源である神との安定した関係に入ることができると述べられた。

キリスト者の喜びは、信仰と、イエス・キリストとの出会いから来るものであり、キリストに根差せば根差すほど、近づけば近づくほど、内面の平安を得ることができ、それゆえに、イエスと出会ったキリスト者は、その喜びを他の人々と分かち合うために、喜びの証し人、使者となると説かれた。

「どんなことにも感謝する」とは、神に対する感謝の愛を持つことと教皇は指摘。

神はわたしたちにとても寛大な方であり、わたしたちは神の恩恵、いつくしみ深い愛、忍耐と優しさを知り、常に感謝しながら生きるように招かれていると話された。

教皇はこの集いで、一ヶ月ほど前、ナイジェリアで拉致された6人の修道女たちを思い起こされ、同国の司教らと一致し、これらの修道女のため、また同様の痛ましい状況に置かれた人々のために祈るよう、信者らに呼びかけられた。

この日、教皇は81歳の誕生日を迎えられた。聖ペトロ広場から「ハッピー・バースディ」の歌声が響くと、教皇は感謝を述べられた。

喜びの主日、教皇は子どもたちが手にするプレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)用の幼子イエス像を祝別された。

教皇は子どもたちに、プレゼピオの前で家族と一緒に祈りながら、わたしたちに愛を与えるために、貧しく、か弱いお姿でわたしたちの間にお生まれになった、幼子イエスの優しさをいっぱいに感じて欲しいと願われた。

「クリスマスからイエスを取ったら何が残るでしょうか。空っぽのお祭りが残るだけです。クリスマスからイエスを取り除かないでください」と、教皇は降誕祭におけるイエスの中心性を強調された。

 








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