2017-09-25 13:49:00

フィローニ枢機卿、東京でミサと様々な集い、日本司牧訪問を終了


訪日した教皇庁福音宣教省長官、フェルナンド・フィローニ枢機卿は、東京でミサや様々な集いに参加。9月26日、10日間にわたる司牧訪問を終え、日本を後にした。

9月17日から始まった日本司牧訪問で、フィローニ枢機卿は、到着した東京から、まず西日本へ。福岡、長崎に赴いた後、広島、大阪を訪れた。その後、同枢機卿は、東日本へと移動。仙台を基点に福島県内の被災地を訪問し、再び東京に戻った。

枢機卿は、23日、日本カトリック学院・東京キャンパスを訪れ、神学生との出会いを持った。

神学生らへの講話で、枢機卿は、日本における司祭召命の不足に言及。これまで教会に奉仕してきた司祭たちの高齢化が進む一方で、それに対応するだけの召命の増加がないことに憂慮を表した。

発展した近代的な大都市で神学の勉強をするということは、この世と福音的価値の対照の中に身を置くことと述べた枢機卿は、こうした状況においてこそ、司祭生活に伴う3つの「預言的しるし」、清貧・貞潔・従順の意味をいかに理解し、それを生きるかが重要と説いた。

また、神学院で司式されたミサで、フィローニ枢機卿は、種を蒔く人のたとえ(ルカ 8,4-15)をテーマに説教。種を蒔く人はイエス、地面はわたしたちの心、種は神の御言葉であるが、このたとえが特に焦点を当てているのは、種が蒔かれた地面の状態であり、すなわち、わたしたちの心の状況はどうなのかが問われていると話した。

同時に、このたとえは、ミサのために働き手が必要な場所、人間が困難な状況に置かれている場所、罪や敵意によって神とその御言葉の受け入れが妨げられている場所など、世の中のことをも考えさせるものと指摘した。

24日、東京カテドラル・関口教会の信徒会館で行われた司祭・修道者・信徒との集いで、フィローニ枢機卿は、福者ユスト高山右近の生涯を回想。日本の現実と離れることなく、福音が日本人にとって何ら異質ではないとの考えの下、社会の中に留まり、イエスのように迫害者を赦しながら、神の深い御心である、赦しといつくしみを自らの態度で示した、その生き方を振り返った。

枢機卿は、日本各地を訪問する中で、日本のキリスト教共同体の宣教に対する大きな可能性を確信したと話した。今日、そして将来、一般的な召命の危機や他の理由で、日本に来る宣教者は以前より多くはないかもしれないと述べつつ、今後の宣教事業は日本にいる人々、司祭・修道者・信徒・家庭・団体などの肩にかかっていると語った。

こうした中、フィローニ枢機卿は東京大司教区が司牧や文化・社会活動などを通して宣教において果たすべき責任を説き、中でも司牧的刷新、外に向かっていく宣教、キリストとの個人的出会いである福音宣教について、再び考え、それに取り組んで欲しいと願った。

同日、東京カテドラルで、フィローニ枢機卿は日本の司教団と共にミサを捧げた。

このミサの説教で、枢機卿は、「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ 20,1-16)を観想した。

このたとえに見る、ぶどう園の主人、すなわち神の特徴として、どの時間に雇った労働者にも、約束した正当な報酬を受け取ることだけを承諾させること、また、主人はどの時間にも常に労働者を探しに出かけて行き、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と彼らに尋ねていることを枢機卿は挙げた。

「神の目には、人々がなすべきことや人生の意味を知らずに生きていることはよくないことと映る。神は人間を目的をもって創られた」と述べた枢機卿は、わたしたちは人生の目的を見失う時、どこにいくかわからない車のようになってしまうと話した。

わたしたちの行くべき道とは何だろうか、それに対し、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14, 6) と言っていると枢機卿は強調。

教皇フランシスコがこのイエスの言葉について「道・真理・命」という通過すべき3つの扉と説いていることを紹介した。

日本もまた福音を、キリストを、その真理を必要としているだろうかとフィローニ枢機卿は問いつつ、神が今だけでなく、いつも、どの時間にもわたしたちを探しに訪ねて来てくださるようにと祈った。

フィローニ枢機卿は、25日、日本の司教らと会合した。

そして、26日、日本司牧訪問を終了、帰国の途についた。








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