2017-02-01 17:03:00

教皇「キリスト教的希望とは、すでに完成されたことを確信して待つこと」


教皇フランシスコは、バチカンで2月1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「キリスト教的希望」をテーマに講話を続けられた。

これまで旧約聖書に見る「希望」を考察された教皇は、この日は、新約聖書におけるイエス・キリストとその復活の光に照らされた「希望」として、使徒聖パウロの「テサロニケの信徒への手紙1」( 5, 4-5.8-10)を取り上げられた。

テサロニケのキリスト教共同体は、キリストの受難と復活の出来事から、それほど時を隔てずに創立された若く熱心な共同体であった。

そのために、パウロはこの共同体に対し、歴史と一人ひとりの人生に唯一、決定的な出来事である主の復活についてのみならず、死者の復活についても理解させる必要があったことを教皇は紹介。

わたしたちも自分の死を考えたり、親しい人の死に直面する時、信仰が試練にさらされるのを感じるが、こうした時、信仰の本質に立ち帰り、神がイエス・キリストを通してわたしたちのために行われたことを改めて知ることが必要と話された。

パウロは、テサロニケの共同体に宛てた手紙の中で、既に眠りについた人たちの復活について、また来るべき主の日について、疑念や恐れを抱く信徒たちに対し、「救いの希望を兜(かぶと)としてかぶり、身を慎んでいるよう」励ましている。

教皇はパウロの言う「救いの希望」とは何なのか、キリスト教的希望とはどういうものであるのかを考えられた。

一般に「希望」と言うと、何か素晴らしい物事を願うことであるが、それが実現するかどうかは確かではない。この場合の「希望」とは「それが実現するとよい」という一つの「願い」に過ぎないと教皇は指摘。

たとえば、「明日は晴れるとよい」と願っても、わたしたちは実際にはそうならない可能性をも知っている。

これに対し、キリスト教的希望とは、「すでに完成した出来事で、わたしたち一人ひとりに確かに実現する出来事を、待つことである」と説かれた。

教皇はキリスト教的希望を、「そこに扉があり、その扉にたどりつくことを願うこと」と喩えられ、「わたしたちのすべきことは、その扉に向かって歩くことであり、わたしたちはそこに扉があることを確信している」と話された。

また、「わたしたちは主との出会いを待ちながら生きることを学ばなければならないが、待ち望みながら生きることは、謙虚で清貧な心にのみできることであり、自分に満足し、多くを所有する人は、自分以外に信頼を置くことができない」と警告された。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(1 テサロニケ 5,10)。

教皇は、聖パウロのテサロニケの信徒に向けた言葉に、大きな平和と慰め、確かな希望を見出すよう招くと共に、亡くなった人々がキリストのうちに生き、キリストとの完全な交わりにあることを祈るよう勧められた。

 

 








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