2016-12-24 23:30:00

主の降誕:教皇による深夜ミサ「世界の子どもたちの問いかけを聞こう」


教皇フランシスコは、2016年の降誕祭を迎え、12月24日夜、バチカンでミサを捧げられた。

聖ペトロ大聖堂には、世界各国の巡礼者たちが集い、主の降誕の喜びを教皇と共にした。

ミサの説教で教皇は、神なる幼子の単純さの中に、平和や、喜び、生きる意味を見出すように招くと同時に、悲惨な状況に置かれた世界の子どもたちの問いを聞くように呼びかけられた。

教皇のミサ中の説教は以下のとおり。

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「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」 (テトスへの手紙 2,11)。

使徒聖パウロの言葉は、この聖なる夜の神秘を浮かび上がらせています。この夜、神の恵み、神の無償の贈り物が現れました。神がわたしたちに与えられた幼子イエスの中に、神のわたしたちへの愛が具現化されたのです。

それは栄光の夜です。その栄光は、ベツレヘムで天使たちによって宣言され、それは今日、全世界でわたしたちも宣言されました。それは栄光の夜、なぜならば神は今も、いつも、世々に「わたしたちと共におられる神」だからです。神は遠い方ではありません。空の彼方や、神秘思想の中に探す必要はありません。神はすぐそばにおられ、ご自分の子であるわたしたち人類から決して離れることはないのです。

それは光の夜です。闇の中を歩く民を照らすとイザヤが預言したその光(イザヤ9,1)は、ベツレヘムの羊飼いたちに現れて、彼らを包みました(参考:ルカ2,9)。

羊飼いたちは、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」(イザヤ9,5)ことを単純に知り、このすべての栄光と、喜び、光が、天使が示したしるし、すなわち「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2,12)に集中していることを理解したのでした。

これはイエスを見つけるための「常なるしるし」です。当時だけでなく、今も同じです。真のクリスマスを祝いたいならば、このしるしを観想しなければなりません。それは、小さな生まれたばかりの赤ちゃんの単純でか弱い様子、寝かされた幼子の穏やかさ、彼を包む優しい愛情です。まさにここに神がおられます。

このしるしと共に、福音書は一つのパラドックスを啓示します。それは王や統治者や権力者について話しますが、そこには神はいないということです。神は宮殿の高貴な部屋の中ではなく、馬小屋の貧しさの中におられます。見せ掛けの豪華さの中ではなく、生活の簡素さの中に、権力の中ではなく、驚くべき小ささの中におられるのです。

神に出会うためには、そこに行かなければなりません。そこでは身をかがめ、小さくなる必要があります。お生まれになる神の御子は、わたしたちに問いかけます。本質にたどりつくために、はかない幻想を捨て、飽くことを知らない要求を諦め、いつもある不満や、何かが足りないことによる悲しみを捨て去るように招きます。神なる幼子の単純さの中に、平和や、喜び、生きる意味を再び見出すために、これらのものを捨てるのはよいことです。

飼い葉桶の中の幼子イエスに問われるように、今日、わたしたちは、両親の愛情に包まれた揺りかごの中ではなく、悲惨な尊厳の飼い葉桶に寝かされた子どもたちの問いかけを聞きます。その子どもたちは、爆撃を避けるための地下防空壕に、大都市の歩道に、移民たちがひしめくように乗る船の上にいます。生まれてくることができなかった子どもたち、空腹で泣く子どもたち、おもちゃではなく武器を持たされた子どもたちの問いかける声を聞きましょう。

光と喜びである主の降誕の神秘は、同時に「希望と、悲しみの神秘」でもあるために、わたしたちにいっそう問いかけてきます。そこには、受け入れられなかった愛、見捨てられた命と同じ悲しみの味があります。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2,7)ために、すべての扉を閉ざされたヨセフとマリアは、イエスを飼い葉桶に寝かしました。生まれたイエスは何人かの人々の拒絶と、多くの人たちの無関心にあったのです。

今日でもまた、クリスマスが神ではなく、わたしたち自身を主役とするお祝いになる時、商業的な光が、神の光に影を投げ掛ける時、贈り物のために心配していても、疎外された人々の存在に気付かない時、そこには同じ無関心があると言えるのです。

しかし、主の降誕には特に希望の味があります。なぜなら、わたしたちの闇にも関わらず、神の光は輝きわたるからです。神の優しい光は、恐れを与えません。わたしたちを深く愛される神は、わたしたちの一人となり、貧しく、か弱い存在となって、わたしたちの間にお生まれになり、その優しさでわたしたちを惹きつけます。

神はベツレヘムにお生まれになります。ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。まるで「わたしたちのパン」としてお生まれになるかのようです。神はご自分の命をわたしたちに与えるために、命の中に来られました。神はご自分の愛をわたしたちに伝えるために、わたしたちの世界に来られました。むさぼるため、命令するためではなく、食べさせ、使えるために来られたのです。

こうして、飼い葉桶と十字架をつなぐ一本の糸が見えてきます。イエスは「裂かれたパン」となるでしょう。これは自らを与え、わたしたちを救うまっすぐな愛の糸です。そのイエスの愛が、わたしたちの人生に光、わたしたちの心に平和を与えてくれるのです。

あの夜、羊飼いたちは理解しました。羊飼いたちは、当時、疎外された存在でした。しかし、神の目には誰一人疎外されてはいません。それゆえに、まさに彼らが主の降誕に招かれたのです。自分に自信を持っている人、生活に余裕のある人は、その時家にいて、物に囲まれていました。これに対して、羊飼いたちは、お生まれになった救い主を見に、「急いで行った」(ルカ2,16)のです。

この夜、わたしたちもイエスから問われ、呼ばれるがままに、信頼をもって、イエスのもとに行きましょう。そして救いをもたらすその優しさに触れましょう。そばにいてくださる神にもっと近づきましょう。

プレゼピオを眺め、イエスの降誕を想像しましょう。そこにある光と平和、究極の貧しさと拒絶を見つめましょう。真のクリスマスの中に、羊飼いたちと共に入り、イエスのもとに、ありのままのわたしたち、わたしたちの孤独や、癒されなかった傷を持っていきましょう。こうして、イエスの中に、真のクリスマスの精神、神から愛されていることの素晴らしさを味わうことができるでしょう。

マリアとヨセフと共に飼い葉桶の前にいて、わたしの命のパンとしてお生まれになったイエスを見つめましょう。イエスの謙遜な愛、永遠の愛を観想しながら、ありがとうを言いましょう。「わたしのために」してくださったこれらすべてに、ありがとうと言いましょう。








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