2016-11-21 19:38:00

教皇、使徒的書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」を発表


教皇フランシスコは、使徒的書簡「ミデリコルディア・エト・ミゼラ」を発表された。

「いつくしみの特別聖年」の閉幕日「11月20日、王なるキリストの大祝日」を日付とする同書簡は、序文に続き、本文22章からなる。

「いつくしみの特別聖年」の終了に伴い発表された教皇フランシスコのこの使徒的書簡は、聖年の恵みを振り返ると共に、この体験を基に、神の無限の愛に信頼し、いつくしみの業をより広げていくよう招いている。

「今はいつくしみの時です」と記す教皇は、この使徒的書簡の中で、カトリック教会の典礼暦で「王であるキリスト」の祭日を前にした「年間第33主日」に「貧しい人々の日」を制定し記念することを明らかにされた。

また、教皇は、聖年開幕前の2015年9月、「いつくしみの特別聖年の免償についての書簡」で、堕胎の罪を犯したが心から悔悛して赦しを願う者に対し、聖年期間に限り、(赦しの秘跡をもって)赦しを与える権限をすべての司祭に許可されていたが、今回の使徒的書簡により、聖年終了後もすべての司祭がこの権限を行使できるよう定めた。

カトリック倫理において、堕胎は大罪とされ、通常、その罪に対しては、司教、または司教がその権限を託し任命した司祭だけが赦しを与えることができたが、今後すべての聴罪司祭にこの権限が認可されることになる。

教皇はこの使徒的書簡の「ミデリコルディア・エト・ミゼラ」というタイトルに、「イエスと姦通の女との出会い」(ヨハネ8,1-11)を観想する聖アウグスティヌスの言葉、「そこに残ったのは、憐れな女と、憐れみの、二人だけであった」を反映させられた。

このエピソードは、姦通で捕らえられた女とイエスとの出会いを語っている。「姦通した女は石で打ち殺せと、モーセは立法の中で命じているが、あなたはどう考えるか」と聞かれたイエスは、長い沈黙の末に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言う。人々が一人また一人と立ち去った後、イエスと女だけが残った。イエスは女に「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言った。

「イエスと姦通の女」のエピソードから来る教えを、「いつくしみの特別聖年」の終了を照らし、教会の未来への歩みを導くものとして提示された教皇は、「いつくしみは教会生活の一部ではなく、本質そのもの」、「すべてはいつくしみの中に啓示され、すべては御父のいつくしみの愛の中に解かれる」と述べている。

「福音書のこのエピソードの中にあるものは、罪と裁きという抽象的なものの出会いではなく、罪に落ちた女と救い主との出会いである。イエスはこの女の目を見つめることで、理解され、赦され、解放されたいというその心を読み取った。罪の惨めさは、愛のいつくしみによって再び覆われたのである」と教皇はこのように記された。

また、教皇はルカ福音書の「罪深い女を赦す」エピソード(7,36-50)を同時に引用。

イエスがファリサイ派の人の家に招かれ食事をしていると、罪深いことで知られる一人の女がその家に入ってきて、イエスの足を涙で濡らし、自分の髪でぬぐい、香油を塗った。驚き、いぶかしがるファリサイ派の人に、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言った。

これについて教皇は、「悔悛した罪びとを前に、いつくしみ深い神が赦しの抱擁をしないことはない。わたしたちは神のいつくしみに対し、条件を設けることはできない。赦しは常に天の御父の無償の行為、無条件にして、わたしたちには過分な愛である」と記された。

教皇は「いつくしみの聖年」が終わったこれからも、ミサや、ゆるしの秘跡、塗油の秘跡などを通して神のいつくしみを「記念」し、また聖書に親しみ、助けを必要とする人々に寄り添うことを通して、神のいつくしみの豊かさを体験し続けるようにと願われた。

特にゆるしの秘跡をキリスト教生活の中心として再発見するよう招く教皇は、真剣に悔い改める人々が神の愛に立ち返ることを妨げぬよう、これらの人々の神との和解の歩みを支え奉仕して欲しいと、司祭らを励ましている。

堕胎の罪を犯し、悔悛し赦しを乞う者に、赦しを与える権限を聖年中に限りすべての司祭に許可されていた教皇は、この権限を今後恒久のものとして行使できるよう定めた。

これについて教皇は「無実の命を絶つ堕胎は大罪であると渾身の力を混めて主張したい」と強調。

しかし同時に「神のいつくしみが及ばない罪、心から悔い改めた者の御父との和解を願う心を打ち壊すような罪は存在しない」とも明言されている。

今日の家族の複雑な現実にも触れた教皇は、こうした家庭の人間的困難を、疲れることなく受け入れ寄添う神の愛の態度をもって見つめて欲しいと希望された。

「聖年の終了と共に聖なる扉は閉じられるが、わたしたちの心のいつくしみの扉は常に大きく開かれている」

「キリストの近くにいたいならば、兄弟たちの近くに寄添わなければならない。いつくしみの具体的なしるしほど、御父に喜ばれるものはないからである」

このように記された教皇は、飢えに苦しむ人、移民、病者、受刑者、教育を受ける機会のない人などに寄り添うことを願うと共に、他人に対する連帯や責任の精神を失わせてしまう行き過ぎた個人主義に陥らないよう警告された。

「今はいつくしみの時」と述べた教皇は、「年間第33主日」に「貧しい人々の日」を制定。

小さく貧しい人たちへのイエスの愛を思い起こし、それに倣うことで、信者たちが、続く「王であるキリスト」の祭日をふさわしく迎えることができるようにと願われた。

 

 








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