2016-11-14 18:07:00

いつくしみの聖年:社会的に疎外された人々のためのミサ


教皇フランシスコは、11月13日、「いつくしみの聖年」の公式行事として、「社会的に疎外された人々のためのミサ」をとり行われた。

「いつくしみの聖年」の閉幕まで、残り1週間となったこの日、バチカンの聖ペトロ大聖堂には、ホームレスの人々や、極度に困窮した人々、不安定な立場に置かれ社会の片隅で生きるすべての人々のためにミサが捧げられた。

説教の冒頭で教皇は、ミサの第一朗読の「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」というマラキ書(3,20)の言葉を引用。

この言葉は、主に信頼し、主の中に希望を置く者たち、自分自身は貧しくとも神において富んでいる者たちに向けられたものであると話された。

預言者マラキは、高慢な者、この世の富に自分の安心を見出す者に対して警告していると教皇は述べつつ、「わたしたちはどこに自分の安心を見出すのか?自分の人生はどこに向かい、心は何を求めているのか?命である主に向けてか、それとも過ぎ去り、決して満足を与えない物に対してか?」と問われた。

このミサの福音朗読では、イエスが神殿の豪華さについて話す人々に、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言い、やがて起こるであろう戦争や天地の恐ろしい現象について語っている。そして、こういう時に現れる偽の預言者に惑わされないようにと注意している。

教皇は、イエスはどの時代にも起きる恐ろしい出来事や、深刻で不当な試練に直面しても決して恐れず、失望させることのない神の中に完全な信頼を置くようにと呼びかけていると話された。

神は創造の頂点に人間を置かれたが、その人間がしばしば疎外され、人々ははかなく過ぎ去る物の方を好んでいると教皇は指摘。

神の目に人間はもっとも貴重なものであり、その人間が大切に扱われていないことは容認できないことと訴えられた。

神の眼差しは人の見かけに留まらず、「謙虚で、霊のくだかれた人」(イザヤ66,2)を顧みられると説く教皇は、疎外され、見捨てられた人々を見ない振りをすることは、神に背を向けることと強調。

「苦しむ人が家の前にいるのに、家の中でくつろいでいられるだろうか。皆の家に正義がない時、自分の家の中だけで平和を享受することはできない」と話された。

いつくしみの聖年の終了を前に、今日、世界中の聖堂で聖年の扉が閉じられるが、助けを求める隣人に対し、神の前で目を閉じることがないようにと、教皇は信者らに呼びかけられた。








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