2016-10-12 17:59:00

一般謁見、教皇「シリアにおける非人間的な戦いの早期終結を」


10月12日水曜教皇一般謁見において教皇フランシスコは、いつくしみの年にちなんでいつくしみの霊的、物的な業について語るとともに、現在シリアにおいて続行中の戦争を非人間的な戦争だと非難し、一日も早く終結する努力を続けるよう呼びかけられた。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、これまでのカテケシスにおいて、旧約聖書の中、また新約聖書の中で神がどれ程いつくしみ深いか、そのいつくしみの言葉と業を考察してきました。まさしくイエスは神のいつくしみの具体像ともいえましょう。

イエスは弟子たちに「天の御父のようにいつくしみ深くありなさい」と教えていました。この教えは現代の全てのキリスト者に言われた言葉でもあります。事実各自自分自身の生活の中で神のいつくしみの体験をするだけで十分ではありません。皆が自分が受けた神のいつくしみを他者にも伝える道具とならなければならないのです。

またいつくしみは人生の特別な時期にだけ関わることではありません。それは毎日の生活にかかわることでもあるのです。ではわたしたちはどのようにして神のいつくしみの証人となれるのでしょうか。何か偉大な業とか、たいそうな努力を要することなのでしょうか。決してそのようなことはありません。

主はわたしたちに、些細ではあるけれども神の目には偉大な行いで実現されるもっと簡単な道を示しています。そしてわたしたちは後にこのような小さな行いによって裁かれるのとも言われます。

聖マタイによる福音の中に美しいページがあります。神のいつくしみを個人的にも深く実体験した聖マタイが残してくれたイエスの遺言とも呼べるような教えです。

イエスは言われます、飢えている人や渇いている人に食物を与えたり水を飲ませたりするたびに、裸の人に着物を着せ、旅人をもてなし、病人や囚人を訪問するたびに、実はわたしたちはそれらをイエス自身にしているのですと。

教会はこれらの善業を「物的いつくしみの業」と呼びます。人間の物質的な必要性を満たす業だからです。

そのほかにも「霊的いつくしみの業」と呼ばれるものもあります。悲しんでいる人や精神的に苦しんでいる人々を慰め力づけたりすること。また気難しい人や面倒な人々に親切に、やさしい忍耐深い態度で接することなども、この霊的ないつくしみの業です。また人からの侮辱などを寛大に赦すこと、生きている人々また死者のために祈ることも立派ないつくしみの業です。誰にでも出来るまさに日常茶飯事ともいえることです。これらは全ていつくしみの業であり、ただ誰かのためにしていることではなくイエスご自身にしていることなのです」。

教皇フランシスコは一般謁見の終わりに悲痛な面持ちでアッピールした。

「今、現に毎日シリアで起こっている非人間的な戦争に思いをはせましょう。わたしはいつも犠牲者たちの傍らに留まります。

責任者たちに心から叫びを挙げたい。すぐに戦火をおさめてください。少なくとも一般人の避難時間を尊重してください。特に爆撃の犠牲になる多くの子供たちに、せめて十分な非難時間を与えてください」。








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