2016-09-15 19:02:00

8月14日水曜一般謁見:教皇フランシスコ「牧者は君主ではない、いつも群れのそばにいる奉仕者」


水曜一般謁見の席上、カテケシス(教会の教えの解説)で教皇フランシスコはマタイによる福音の一説を解説し、教会の牧者、指導者たちは人々から離れることなくキリストの模範に倣い、いつも人々の中、特に貧しい人々の間にとどまり神の救いをもたらすべきと語った。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
神のいつくしみ、あわれみは人間のみじめさをイエスにおいてみそなわし、すべての人に救いの可能性を提供してくれました。キリストはすべての人々、特に貧しい人々のすぐ近くに来てくれました。

キリストは実に、人々の間におられる牧者となったのです。決して貴人のようにはなりませんでした。教会の中で牧者たち、すなわち指導者たちがまるで貴人のようになり人々から身を引き、特に貧しい人々から遠のくは醜くよくないことです。それは決してキリストの精神に沿っているとは言えません。キリストはこのような牧者について、彼らの言うことには従いなさい、しかしかれらの行っていることに倣ってはいけないと警告しています。

主イエスは困難な生活を抱えている人々、多くの必要性に迫られている人々、単純な人々をご自分に従うよう 招いていました。そしてかれらにこそ心の安らぎと支えを約束していました。キリストのこの招きは主の命令であったことを忘れないようにしましょう。イエスは言われます。「私のほうに来なさい、わたしのくびきを負いなさい、そしてわたしにならいなさい」

貧しい人々や小さな弱い人々は自分の持っているものにも有力な友人たちにも頼ることはできません。ただ神に頼るしかないのです。自分自身の非力やみじめさ、貧しさ、小ささ、弱さを自覚しているからこそ神のあわれみいつくしみに頼ることを知るのです。神だけが唯一の頼り、助けです。こうして彼らはその貧しさ、小ささ、弱さゆえに神ご自身から生涯にわたる安らぎを受けるだろうとの約束を受け、キリストの弟子となるのです。この神の約束はすべての人々のためです。

このいつくしみの聖年の間、多くの人々が聖なる門をくぐります。何のためでしょうか。それはイエスとの友情を見出し、キリストだけが約束できる心の安らぎを得るためです。.この歩みはイエスに最後まで付き従おうとの弟子たちの回心を表すものなのです。回心とは主のあわれみ、いつくしみの再発見にほかなりません。主のあわれみ、いつくしみは大きく無限で尽きることがありません」。








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