2016-09-07 12:48:00

水曜教皇一般謁見 : 教皇フランシスコ「神のいつくしみは救いの源泉」


ローマ特有の強い日差しにも関わらず、バチカン聖ペトロ広場を埋め尽くした巡礼者たちに教皇フランシスコは「真の信仰」「神のいつくしみの真の理解」の必要性を強く説かれた。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今聞いたばかりのマタイによる福音の一節は、そのいつくしみと愛を理解するためにわたしたちをイエスの神秘の奥深くに導いてくれます。

福音のエピソードは洗礼者ヨハネが牢獄の中から自分の弟子たちをイエスの元に遣わし、イエスはこれまでイスラエルの民が待ち焦がれていた救い主そのものなのか、それともまだ別の誰かを待たなければいけないのかと尋ねさせる場面です。その時聖ヨハネは二つの闇の中におりました。牢獄の闇、そして疑問の闇。イエスはヨハネの弟子たちに直接には答えてはいないように見えます。しかし実はヨハネの疑問にはっきりと答えているのです。

イエスは救い主は誰か神はいかなるお方であるかを自分勝手に想像し創り出さないよう警告するのです。イエスは質問自体に直接答えるのではなく、ご自分の実際の行いを示して、そこから答えを引き出すよう導きます。イエスによって多くの病いに苦しむ人々が救われ癒され、様々な疎外から解放されています。貧しい人々には善い便りが告げられています。

ヨハネはこれまで人々に救い主が到来すれば、彼はこの世の悪を罰し懲らしめ清めてくれることを告げていました。イエスはその救い主としての使命をこれとは少し趣の異なる方法で実現します。弱い人々、苦しむ人々、捕らわれの身にある人々の解放、すなわちイエスはご自分の救い主としての使命を実際的な行動で実現することによって、救い主は神なる御父のいつくしみ、憐れみの具体的な道具であることを示されるのです。 イエスが示す救い主の真の姿は、一人の例外なく、全ての人々に自ら出会いに来られ、慰めと救いをもたらすあわれみそのものの姿なのです。

これがイエスの示す神の裁きです。恐れではなく慰めと信頼を呼びますものなのです。こうしてイエスは見ることも触れることも出来ない神のご自身の行いや業をわたしたちにも見えるもの触れることの出来るものとしてくれたのです。

イエスの教えはいつの時代でも現実的です。今日もそのまま適応することが出来ます。現代多くの人々は自分勝手に都合のいいように神の姿を作り出しています。イエスの行いそのものの中に神の真の姿を求めなければなりません。

わたしたちきりスト者はイエスの示す神を信じています。わたし自身もイエスの教えてくれる神の愛の慈しみの「しるし」そしてその「道具」となれるよう大きな信仰の恵みを祈り求めましょう」。








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