2016-08-10 17:58:00

「聖年の門をくぐり、神のいつくしみに触れる」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで8月10日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は神のいつくしみをテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)として、ルカ福音書の、イエスがやもめの息子を生き返らせるエピソード( 7,11-17)を観想された。

イエスがナインという町の門に近づかれた時、ちょうど入れ違いに棺を担いだ葬儀の列が出て行くところであった。一人息子を亡くした母には大勢の町の人たちが付き添っていた。

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」(ルカ7,13-14)。

大きな憐れみに動かされたイエスは行列を止め、ここで死と「一対一」で向き合うことになったと教皇は述べられた。

教皇はこのエピソードの中心は奇跡ではなく、息子を失った寡婦に対するイエスの優しさであると強調。

神のいつくしみは、夫を失いさらに一人息子をも亡くした女性への憐れみとなり、母の深い悲嘆はイエスの心を動かし、それは息子を生き返らせるという奇跡となったと話された。

教皇は巡礼者たちに、「いつくしみの聖年」にあたり「聖年の扉」すなわち「いつくしみの扉」をくぐりながら、ナインの町の門で起きたこの福音のエピソードを思い起こすよう勧められた。

イエスがこの母の涙を見た時、この寡婦はイエスの心に入ったように、わたしたちは聖年の門に進みながら、各自が抱える人生の苦しみや、計画、失敗、疑問、恐れなどをいつくしみ深い神に差し出すことが大切と教皇は述べられた。

そして、聖年の門で神はわたしたち一人ひとりとお会いになり、「もう泣かなくともよい」(ルカ7,13)という力強い慰めの言葉をかけてくださり、それによってわたしたちは再び立ち上がり、死から命へと渡ることができるだろうと話された。

「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。死人は起き上がってものを言い始めた。イエスはその息子を母親にお返しになった」(同7, 14-15)。

教皇はイエスが息子を母親に「お返しになった」という言葉に、イエスの優しさを見つめられた。

母はイエスの手から息子を受け取ることで、再び母親となったが、この息子の命は母から受けたものではなく、神の恵みによるものと教皇は指摘。

母と子がこうしてイエスの力強い言葉と愛に満ちた行いによってそれぞれのアイデンティティを取り戻したように、特に聖年において、母なる教会は、神から自分の子らを受け取りながら、この子らの命が神からの恵みであることを知るのであると話された。

教皇はまた、イエスが若者を母親に返した時、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美した」(同7, 16)ことに注目。イエスがこの業を行われたのは、ただこの母子や、町の人々の救いのためだけではなく、イエスにおいて神の恵みが人類に現れ続けるためであったと説かれた。

この聖年を祝うことで、ローマだけでなく、世界中の教会が主を称え、唯一つの賛歌に声を合わせることを望んだと述べた教皇は、皆で聖年の扉に向かいながら、一人ひとりがイエスのいつくしみ深い御心の扉に近づくことができるようにと願われた。








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