2016-07-01 13:00:00

教皇「いつくしみとは、言葉ではなく、生き方」聖年の巡礼者たちに


教皇フランシスコは、6月30日、バチカンで「いつくしみの聖年」のために訪れた巡礼者たちとお会いになった。

この集いは、聖年の教皇謁見としては、夏休み前最後のものとなった。聖年を機会とした謁見は、秋から再び開催される。

集いの中で教皇は、「いつくしみの業」をテーマに講話された。

教皇は、「いつくしみ」とは抽象的な言葉ではなく、「生き方」であると強調。

「いつくしみについて話すことと、いつくしみを生きることは、別のこと」「実践を伴わないいつくしみは、そこで終わっている」と話された。

いつくしみを生きたものとするには、精神的・物質的困難にある人々に会いに行かなければならないと教皇は述べ、「いつくしみは見るための目、聞くための耳、支えるための手を持っている」と指摘された。

わたしたちはしばしば悲惨な貧困を目にしても、それに触れることなく、何事も無かったかのように通り過ぎてしまうが、その無関心はわたしたちを偽善者にし、一種の精神的昏睡は魂を無感覚に、人生を空虚なものにしてしまうと話された。

神のいつくしみを自分の人生で体験した者は、兄弟たちの困窮を前に無関心でいることはできないと述べた教皇は、グローバル化した今日の社会が生んだ様々な形の貧しさに対し、想像力をもって新しい形での愛徳の業を模索する必要を呼びかけられた。

教皇はキリスト者がこれらの貧しさを直視し、本質を見失わないことを希望。その本質とは、「飢えた人や、受刑者、病者、孤独な人、悲しむ人の中にキリストを見ること」であると説かれた。

 








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