2016-06-15 19:03:00

教皇フランシスコ : 水曜恒例一般謁見 「いかなる人々をも兄弟として受けいれよう」


6月15日水曜一般謁見の席上、教皇フランシスコは数万人の巡礼者たちに、この日のカテケシス(教会の教えの解説)のメイン・テーマとして「いつくしみは光である」を中心に話された。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたいたちは、自分たちに不都合な人々、例えば難民や亡命者たちを面倒なものたちとして疎外しようとの誘惑にあうことがしばしばあります。しかし、いかなる場合にもいかなる人々を前にしても、「いつくしみ、あわれみはわたしたちにとって行くてを照らす光」となります。
その反対に無関心や敵愾心はわたしたちの心を閉じ何も見えなくしまた聞こえなくいたします。ですから必要に迫られている人々や困難に遭遇している人々に、いつもみずから出会い、かれらの声に耳をかそうとの心構えをもたなければなりません。キリストの模範に倣い、わたしたちの生活の中心に疎外されている人々を常に据えなければなりません。

今日でもいろいろな理由でさまざまなハンディーを抱えている多くの人々が、社会の無関心や敵意、差別、疎外に苦しんでいます。かれらはしばしば声なき声を挙げて救いを、助けを、少しでも感心を、同情と連帯を示してくれるようにと叫んでいます。
必要に迫られている人々、病人、飢えている人々、難民や亡命者に関心を寄せているかどうか今一度一人ひとり心から反省しましょう。. エリコの盲人のエピソードはこのことについて語っているのです。
毎日何回わたしたちは病人や困っている人々、飢えている人々に出会うことでしょう。また何度、かれらを面倒な人々とみなしてしまうことでしょう。何回難民たちや亡命者たちにも出会うことでしょう。そしてそのたびにかれらなどいないほうがいいと思ってしまうでしょうか。これはわたしたち皆が陥る誘惑です。皆が,わたし自身も含めて皆が。 

ですから困っている人々に自ら進んで出会いに行く感性と勇気が必要です。神のみことばは、無関心や敵愾心は私たちの目をくらませ耳を閉じ、兄弟たちを見ることを邪魔し、兄弟たちの中に神を認めるのを阻止すると教えています。 
時にはこの無関心や敵愾心は人を攻撃的また暴力的にもします。侮辱的な言葉を浴びせたり、かれらをどこかに追い出せとか放り出せとか言わせます。
その反対にエリコでの出来事が教えているように、イエスが通り過ぎるところ、そこにはどこでも「解放と救い」があります。エリコの盲人は信仰の目をもってキリストを探し、キリストに懇願し、キリストの力の実現を願いました。こうしてキリストはかれの願いを完璧に聞き入れたのです。 福音は盲人が道端で物乞いをしていたと伝えています。キリストはかれを道端ではなく道の真ん中に連れてこさせました。
わたしたちも何か困難な状況に見舞われたり、罪を犯すとき、あのエリコの盲人のようにキリストの方に必死で向かっていきましょう。キリストはあの時そうされたように、わたしたちの手をとり、救いを与えるために道端からわたしたちをも導き出してくれるでしょう」。








All the contents on this site are copyrighted ©.