2016-05-11 16:08:00

教皇「父の家に入り、いつくしみの祝宴に参加しよう」一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで5月11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で教皇は、聖書に見る神のいつくしみをテーマに、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえ(15,11-32)を観想。このたとえ話に登場する父親と2人の息子のそれぞれの態度を考察された。

「放蕩息子」のたとえでは、ある父親が2人の息子に財産を分けたところ、末の息子は遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまう。飢え死にしそうになった彼が父の元に戻ると、父は息子を憐れに思い、駆け寄って抱擁し、良い服を着せ、盛大な祝宴を開いた。一方、父に仕えていた上の息子は、これに対して不満を表した。

「もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15,19)と言う末の息子の罪の告白をさえぎって、「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同15,23-24)と言い、一番上等の服や、指輪、履物を身につけさせ、祝宴を始める父親の態度に教皇は注目。

父親の心からあふれる喜び、自分の息子としての尊厳を速やかに取り戻させ、怒るよりむしろ、子の無事だけを心にかける愛をそこに見出された。

特に、戻ってきた息子を見つけた父親の「まだ遠くにいるのに」「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」という描写は感動的であると教皇は述べ、父親のこの抱擁と接吻は、すべてにも関わらず彼は父親にとっては常に息子であるということを理解させるに十分であったと説かれた。

神の子としてのわたしたちの立場は、わたしたち自身の手柄によるのではなく、すべては神の御心の愛の結果であること、また人生のどんな状況においても、わたしたちは常に子として神から帰りを待たれていることを忘れてはならないと話された。

このたとえ話にはもう一人の息子、すなわち放蕩息子の兄も登場する。教皇はこの長兄もまた父のいつくしみを発見すべき存在として示された。

上の息子はいつも父に仕えてきたが、彼は父と同じ優しさを持たず、父と共にいることの喜びを感じていないと教皇は指摘。

実際、長兄は、父の弟に対する態度と自分に対するそれとを比較して、自分のためには子山羊の一匹すら与えてくれたことがないと父親に不服を述べた。

教皇は、一人の息子は家を出て行き、もう一人の息子は真に父の近くにはいなかった、これは父親にとっては辛いことと話された。

この長兄の態度は、何も得られないならば、いったい努力する価値があるだろうかと自問するわたしたちの態度でもあると述べた教皇は、御父の家に残ることは報酬のためではなく、神の子としての尊厳のためであることをイエスはわたしたちに思い出させていると説かれた。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部おまえのものだ。…だが(見つかった弟のために)祝宴を開いて楽しみ喜ぶのはあたりまえではないか」という父親の言葉は、「いつくしみの論理」を表していると教皇は強調。

これに対して、自分の罪には罰が下されて当然と考える末の息子も、これまでの奉仕に報酬を期待する長兄も、頑張れば褒美がもらえ、失敗すれば罰されるという論理の中にあり、イエスの示す神のいつくしみの論理からは離れていると話された。

いなくなった末の息子を取り戻した父は、今度は上の息子に対してもその弟を返してあげることができる。父にとっての最も大きな喜びは、子どもたちが兄弟として互いを認め合うことと教皇は話された。

この2人の息子たちは、父親の喜びに加わることも、それを拒否することもできる。このたとえ話には結末が語れらていないが、特に長兄がその後どうしたかは、わたしたちにも気になるところであると述べた教皇は、わたしたち皆が御父の家に入り、そのいつくしみと兄弟愛の祝宴に参加できるようにと願われた。

 

 








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