2016-05-04 16:12:00

「見失った羊のたとえ」をテーマに、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで5月4日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

「いつくしみの聖年」にあたり、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)では、「聖書に見る神のいつくしみ」をテーマとした一連の考察が続けられている。この日、教皇はルカ福音書の「見失った羊のたとえ」(ルカ15,1-7)を取り上げ、講話を行われた。

教皇は、迷子の子羊を肩に担いだ「善き羊飼い」のイメージの源となっているこのたとえ話を、イエスの罪びとたちへの呼びかけと、誰一人失うことを望まない神のいつくしみを表すものとして紹介された。

イエスが語るこのたとえ話に登場するのは、羊飼い、迷子の羊、そして残りの羊の群れという3者であるが、この中で実際に動いているのは羊飼いだけであり、羊たちではないことに教皇は注目。したがって、羊飼いが唯一、真の主役であり、すべては彼の行動にかかっていると指摘された。

罪びとに接するイエスに不満を持つファリサイ派の人々や律法学者たちに対し、イエスはたとえ話を次のような問いで始められた。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」。

教皇はイエスのこの問いは、たった一匹のために、野原に無防備な九十九匹を残していくことが果たして賢明だろうかと考えさせる、パラドックスな性格を持つものと述べられた。

見失った羊を見つけた羊飼いは、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言う。

羊飼いはこの羊だけに手を差し伸べ、他の羊のことは忘れているように見えるが、そうではなく、イエスはむしろどの羊も失われてはならないと教えていると教皇は説明。神はたった一人の人でも失われることを望まず、その人のために決してあきらめないと話された。

羊飼いは「わたしは九十九匹まだ持っているから、一匹失っても、たいした損失ではない」と考えることもできたが、それに対して、まさにその一匹を探しに出かけた。なぜなら、彼にとっては一匹一匹がとても大切であり、特に最も助けを必要とする羊、見捨てられた羊がいたら彼はそれを探しにいくのであると、教皇は述べられた。

罪びとに対するいつくしみ、これを神のふるまい方として示した教皇は、神の救いの御旨は誰にも曲げられない、このいつくしみにおいて神は絶対的に忠実であると強調された。

キリスト教共同体の中ではいつも誰かが足りなかったり、誰かが出て行ってしまったりするが、それは仕方のないことだと自分たちの中に閉じこもっていてはいけないと教皇は説き、どの群れも見失った兄弟を決して諦めず、羊飼いから離れることなく、兄弟愛の歩みを始めなくてはならないと呼びかけられた。








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