2016-04-06 18:09:00

教皇フランシスコ、神のいつくしみとゆるしを強調、「イエスは全ての人々のために慈しみの時を開いてくれた」


初夏のような気候に恵まれたローマの4月6日、恒例水曜教皇一般謁見のためにバチカンの聖ペトロ広場は世界中から集まった4万人の巡礼者たちで朝早くから一杯になった。教皇はいつくしみの年のテーマを続け、この日も神の限りないいつくしみ、ゆるしについて話された。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちには皆その弱さやみじめさがあります。しかし、十字架上でそれらを贖ってくれたキリストの力とゆるしには限りがありません。決して尽きることはないのです」。

教皇フランシスコはこのように話され福音における神のいつくしみについての一連の新しいカテケシスは開始され次のように続けられた。

「キリストは人々の前に大いなる聖性と権力を備えた力強い王として自分自身を示すことも出来たはずです。ある人々が降りてこいとキリストに言ったように、十字架上から降りてくることも出来たはずです。神として何でも出来たはずです。しかし、キリストはそのようにはしませんでした。かえって、人々の中で最も惨めな者として人類のためにゆるしの時を開いたあの十字架上での犠牲を受けいれたのです。
 

イエスは神のいつくしみを人々に示す5つの大きなあわれみの業をなさいました。

「先ず人々に自ら会い行かれ」、「善きおとずれ、福音を伝え」、「病人たちを癒し」、「最も貧しい人々、小さな人々に近づき」、「罪人たちに赦しを与えました」。

イエスは神殿の壮麗さの中で自分を人々にお示しにはなりませんでした。ラッパを吹き鳴らして人々の注意を促しもしませんでした。荘厳な裁判官の衣装つけて現れもしませんでした。しようと思えば出来たのにです。かえって30年間にわたるナザレトでの隠れた生活の後で、他の多くの罪人たちの列の中に自分の身を置き、ヨルダン川に向かいます。洗礼者ヨハネからゆるしの洗礼を受けようとしていた多くの罪人の中に入ることを恥としませんでした。

イエス・キリストは人々に同情し、彼らと連帯し,人間の持つあらゆる状況をともにする者としてご自分を救い主として表すのです。この洗礼の後、キリストが行われた業は、全く無償で人々を救われる神の愛を全ての人々にもたらすという救い主としてのプログラムの始めでした。

イエスは決して憎しみや敵対をもたらしませんでした。かえってわたしたちに愛をもたらしてくれたのです。大きな愛、全ての人々に開かれている愛、私たち皆に開かれている愛であり救いをもたらす愛です。キリストは最も小さな人々のために自ら隣人になってくれました。赦しであり、喜びであり、新しい生命である神のいつくしみをもたらしてくれました。父なる神から遣わされた神の子イエスは全人類のためのいつくしみの時のはじめだったのです。

十字架上でイエスは全世界の罪を御父のいつくしみにもたらします。全ての人々の罪、わたしのあなたの彼らの罪を神のあわれみに示します。これにより私たちの罪は消されました。誰も何も、このイエスの犠牲の祈りから除外されてはいません。わたしたちにとって唯一大切なのは、ゆるしの秘跡を通して、完全な信頼をこめて神に全てを依託し,痛悔することです。神のゆるしを前にして決して自分たちの力に頼ってはなりません。

わたしたちは皆罪人です。しかし、皆赦されました。神の憐れみであるこの許しを皆が受ける可能性を持っています。皆誰でも持っているものです。十字架にかかられたイエスの愛の力にはいかなる障害も、限りもありません。この神のいつくしみがわたしたちの惨めさを消し去ってくれるのです」。








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