カトリック教会の典礼暦で「聖木曜日」を迎えた3月24日、教皇フランシスコはバチカンで「聖香油のミサ」をとり行われた。
復活祭直前の一週間、「聖週間」における木曜日を「聖木曜日」という。聖木曜日の典礼として、午前中には「聖香油のミサ」が行われる。
聖木曜日の午後、「主の晩餐のミサ」と共に、教会の典礼は一年の頂点である「聖なる過ぎ越しの3日間」に入る。
「聖香油のミサ」は、各教区の司教座聖堂において司教と司祭によって共同で司式され、この中で、司祭たちは叙階の日の約束を新たにする。
また、このミサでは司教による聖油の祝別が行なわれ、洗礼志願者用聖油、病者用聖油、そして堅信などに用いる聖香油の、3種の聖油が祝別される。
この日、聖ペトロ聖堂の中央祭壇のまわりは、ローマ教区の司教である教皇フランシスコと共にミサを捧げる同教区の司祭たちで埋まった。
ミサの説教で教皇は、神のいつくしみは無限で、言い尽くしがたいその神秘をわたしたちは「常により大きないつくしみ」としか表現できないと述べ、それは無関心と暴力に支配された荒れ野を日々少しずつ前進させる「歩むいつくしみ」とも言えると話された。
教皇は集った司祭らに対し、わたしたちは御父の偉大ないつくしみの証し人であり、それを司る者と述べ、イエスがなさったように、すべての人が生きる上でそれを体験するまで、あらゆる方法でそれを伝える、優しく慰めに満ちた任務を負っていると呼びかけられた。
そして、「いつくしみの聖年」の「聖木曜日」にあたり、教皇は神のいつくしみが特にあふれる2つの状況を提示。これらの状況において司祭たちもまた恐れることなくいつくしみを受け入れ、それを伝えて欲しいと呼びかけられた。
神のいつくしみがあふれる状況の一つを、教皇は「出会い」という言葉で表現。福音書の「放蕩息子」のたとえにおける、父親が帰ってきた息子を見つけ、憐れに思って、走りより、首を抱く場面に、わたしたちがいつも感じる驚きと感動を思い起こされた。
放蕩息子の父親のように喜びをあふれさせ、惜しまず愛情を表現する神に、わたしたちもまた感謝を惜しむことがあってはならないと述べた教皇は、すべてを修復し、本来の尊厳を取り戻させてくださる神への感謝を、すぐに祝祭として表現することが大切と指摘。
父の差し出す服を着て、長兄の怒りを取り去り、共に喜び合う祝祭に参加してのみ、真に自分を振り返り、赦しを乞い、罪をいかに償うかを考えることができると説かれた。
次に教皇は、神のいつくしみがあふれるもう一つの状況として、「赦し」そのものがあると述べ、わたしたちを「最も恥ずべき恥」の状態から、「最も高い尊厳」へと直接移す、神の赦しにあふれるいつくしみを示された。
イエスが、罪深い女が涙でご自分の足を洗うのを許し、自分は罪深い者であると告白したシモン・ペトロを人間をすなどる漁師とするなど、人を深い恥から尊厳へと移してくださるのに対し、罪を恥じずに隠したがり、わずかに得た尊厳を自分のためにひけらかすわたしたちの傾向を諌められた。
主のあふれるばかりの赦しに対するわたしたちの答えは、「尊厳ある恥」と「恥を知ることのできる尊厳」の健全な緊張関係を保っていくことと教皇は述べ、自分のためには謙遜とへりぐだりを求めながらも、使命のためには主に引き上げていただくことを受け入れる姿勢が必要と説かれた。
All the contents on this site are copyrighted ©. |