2016-03-14 13:15:00

回心と命を望まれる神のいつくしみ、教皇、日曜正午の集いで


教皇フランシスコは、3月13日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

この日、教皇フランシスコの選出から3年が記念された。バチカンの聖ペトロ広場に集った信者たちは、お祝いの言葉を記した横断幕を掲げるなど、会場は温かい喜びの雰囲気に包まれた。

教皇はこの集いの説教で、四旬節第5主日の福音朗読、「姦通の女」(ヨハネ8,1-11)のエピソードを取り上げながら、罪びとの死ではなく、回心と命を望まれる神のいつくしみに光を当てられた。

このエピソードは、イエスが座っていた神殿の境内で展開する。イエスが民衆に教えていると、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を引き立てやって来た。

女はイエスと群集の間に、すなわち、神の御子のいつくしみと、糾弾者たちの怒りと暴力の間に立たされることになったが、実はそれはイエスを策略に陥れるためであった。

イエスが厳しい律法に従うならば、人々を魅了するその温和さと優しさの評判を失い、それに対し、いつくしみを示すならば、掟に反することになると、律法学者たちは目論んだと、教皇はこのように状況を説明された。

「あなたはどうお考えになりますか」と答えを引き出そうとする律法学者らに対し、イエスは「指で地面に何か書き始められた」(ヨハネ8,7)。教皇は、イエスはこうすることで、人々の衝動を静め、神の正義を求めようとしたと述べられた。

しかし、訴える者たちはしつこく問い続けたため、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そして、また地面に何かを書き続けられた。(同8,7)

この答えに、人々は女に投げつけるはずであった石を捨て、イエスに対して意図していた非難を収め、去っていってしまった。

最後には、イエスと女だけが残った。この構図について、教皇は、憐れみの対象と、いつくしみが向かい合ったと指摘。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか」(同8,10)とイエスは言い、女の存在を認め、いつくしみと愛にあふれた眼差しを投げかけただけで、おそらくこの女性は初めて自分の尊厳に気付くことができただろうと述べられた。

この女性そのものは罪ではなく、尊厳を持った人間、変ることのできる人間であると教皇は述べ、イエスによって彼女は自身の隷属から解放され、新しい道を歩むことができるようになったと話された。

そして、教皇は、この姦通の女とは、神の忠実に背いているわたしたち罪びとを代表するものであり、彼女の経験は、わたしたちを罪に定めることではなく、イエスを通して救いを望まれる神の御旨を示していると説かれた。

神はわたしたちを罪で釘付けにせず、わたしたちの罪でわたしたちの存在を測ることもしないと述べた教皇は、「神はわたしたちの解放と、わたしたちの自由が悪から善へと変わることを望まれる、それは神の恵みによって可能です」と強調された。

教皇は集いの最後に、聖ペトロ広場の巡礼者たちに、「聖ルカによるいつくしみの福音」と題された福音書の小冊子を、ボランティアの手を通して配布された。

そして、いつくしみの聖年のテーマである「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者となりなさい」(6,36)というルカ福音書中のイエスの言葉を示された。








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