2016-01-20 15:46:00

水曜教皇一般謁見 「すべてのキリスト者は洗礼において一つ」


1月20日一般謁見の席上、教皇フランシスコは、毎年1月18日から25日の聖パウロ回心の祝日までの一週間に記念される「キリスト教一致祈祷週間」にちなんで、あらゆるキリスト者の一致の根源である「洗礼」について話された。ちなみに今年の一致祈祷週間のテーマは聖ペトロの第一書簡から取られた「私たちは皆神のいつくしみの業を告げ知らせるために招かれている」という言葉が選ばれた。

この日の一般謁見はバチカン内パウロ6世一般謁見ホールで行われた。定刻通り会場に姿を現した教皇フランシスコは会衆の盛んな拍手に迎えられ、すべてのキリスト者にとって、かけがえのない神からの恵みである「洗礼」について次のように話された。

「兄弟姉妹の皆さん、ラトビアの首都リーガの司教座大聖堂の真ん中に、12世紀の作と言われる素晴らしい洗礼盤があります。ラトビアが聖マイナルドの宣教によってキリスト教に改宗した頃にさかのぼるものです。この洗礼盤はラトビアにおけるカトリック、プロテスタント、そして正教会のすべてのキリスト教徒たちの信仰の唯一の源泉を雄弁に物語っています。この源泉は私たちすべてのキリスト教徒に共通の「洗礼」です。バチカン第二公会議は次のように明言しています。「洗礼はそれによって生まれ変わったすべての人々にとって一致の秘跡的絆となっている」と。

聖ペトロはその第一書簡の中で初代教会の信者たちに、洗礼によって神からいただいた恵みと洗礼からくる義務とをしっかりと自覚するようにと書き送っています。私たちもこの一致祈祷週間にあたって、同じようにこの秘跡の意味をあらゆる分裂を乗り越えて共に再発見するよう招かれています。

何よりも先に、洗礼を共にするということはわたしたちが皆罪人であり、救いと贖いを必要としていること、またあらゆる悪から解放される必要もあるという事実を意味しています。聖ペトロはこのような負の側面をその書簡の中では「闇」と呼んでいます。「神はあなたたちをこの闇から引き出し、神の素晴らしい光の中に移してくれたのです」と聖ペトロは言っています。闇それは死の体験でもあります。死は洗礼において象徴的に表現されています。水の中に浸ることは死を表し、続いて水から上がるということはキリストにおける新しい生命によみがえることを意味します。わたしたちキリスト者が.唯一の洗礼を共にするという時、それはわたしたち皆が、カトリックもプロテスタントも正教徒も、すべてのキリスト者が闇から救い出され、いつくしみに満ち溢れる生ける神との出会いに呼ばれているのだという同じ体験を共有しているということなのです。

残念ながらわたしたちは皆、エゴイズムの体験をも余儀なくされています。まさしくこのエゴイズムから分裂や軽蔑、閉鎖が生まれ出てくるのです。洗礼から再出発するということは、すべての人々にとって希望の泉である神の慈しみの泉を再び見出すということにほかなりません。なぜなら誰ひとりとして神のいつくしみから除外される者はいないからです」。

 








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