2015-05-18 13:25:00

4人の修道女の列聖式、バチカンで


教皇フランシスコは、5月17日、バチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられ、この中で4人の修道女を新たに聖人として宣言された。

この日、列聖されたのは、ジャンヌ・エミリ・ドゥ・ヴィルヌーヴ、マリア・クリスティーナ・デラ・イマコラータ・コンチェツィオーネ、マリア・アルフォンシーナ・ダニル・ガッタス、マリア・ディ・ジェズ クロチフィッソ。いずれも19世紀に修道生活を通して福音を証しした女性たちで、その出身はフランス、イタリア、そして聖地。

エルサレムとガリラヤ地方出身の修道女2人が列聖されたこの式には、パレスチナのアッバス大統領、イスラエルの使節をはじめ、中東からおよそ2千人の巡礼者が参加した。

教皇はキリスト者の輝く模範としてこれらの聖人たちを示しながら、これらの女性たちのように神の愛を心に育て、神、そして人々と一致して生きることができるようにと祈られた。

4人の新聖人たちの人となりは以下のとおり。

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・聖ジャンヌ・エミリ・ドゥ・ヴィルヌーヴ(トゥールーズ1811-カストル1854)

フランス・トゥールーズの貴族の家庭に生まれた。早くから貧しい人や病者、疎外された人々への奉仕の思いを強め、1836年、無原罪の聖母修道女会を創立、カストルに最初の共同体を築いた。工業化初期時代の社会の中で、会員らは貧困に苦しむ人々に手を差し伸べ、少女たちを保護し、受刑者たちを訪問した。その活動は次第に幅を広げ、2つ目の共同体では、子どもたちの教育、カテキズム、病者の世話という使命に発展していった。イエスが知られていない場所での宣教を望んでいたジャンヌ・エミリは、1848年、修道女たちをセネガルに、続いて、ガンビア、ガボンへと派遣した。彼女の死後、南米にも共同体が誕生した。1853年、総長職を退いたジャンヌ・エミリは、翌年、コレラ患者に奉仕する中、自らも感染し、カストルで亡くなった。

 

・聖マリア・クリスティーナ・デラ・イマコラータ・コンチェツィオーネ(ナポリ1856-カソリア1906)

イタリア・ナポリに、本名アデライデ・ブランドとして生まれた。堅固な信仰教育を受けて育ち、早くから祈りと聖性の生活への思いを深めた。ナポリのサクラメント会に入会、1876年に着衣し、無原罪の御宿りのマリア・クリスティーナ修道女となった。しかし、病気を患い、ここでの修道生活を諦めなければならなかった。これをきっかけに、以前から招きを感じていた新しい修道会創立の計画を実行に移し、1878年、贖罪のサクラメントのイエス修道女会を立ち上げた。経済的困難や反対、彼女自身の健康問題などにも関わらず、会は急速に成長していった。神のしもべ・ミケランジェロ・ダ・マリヤーノと福者ルドヴィコ・ダ・カソリアの助言のもと、ナポリ近郊のカソリアに新修道院を設立したのをはじめ、各地に共同体を作り、少年少女の教育に尽力した。1897年、会が教皇庁の認可を得ると、マリア・クリスティーナと会員たちは終生誓願を立てた。寛大さと忍耐、霊的喜びをもって修道生活を生き、謙遜と慎重さ、優しさのうちに、神への忠実の模範を示しながら、総長職を務めた。神の恵みに助けられ、常に主に倣いながら聖性の道を歩み、1906年に魂を天に返した。

 

・聖マリア・アルフォンシーナ・ダニル・ガッタス(エルサレム1843-エンカレム1927)

パレスチナの信仰の篤いキリスト教徒の家庭に生まれた。修道生活への召命を温め、1858年、聖ヨセフ修道会に入会、1863年、終生誓願。エルサレムの学校で教理を教えると共に、無原罪の聖母の信心会(後に「マリアの娘たち」に変更)、またキリスト教信者の母の会を推進した。1874年、最初の聖母の出現を見た。翌年、再び同じ体験をし、その時、聖母から新しい修道会の創立を託された。エルサレムの総大司教にこの神秘体験を話し、励ましを受けた。タノウス神父の霊的指導の下、1880年、マリアの娘たちは共同生活を開始、一年後に「聖なるロザリオ修道女会」が認可された。3年後、彼女自身も1884年、正式に同会の会員となり、ヤファで教鞭を取った。1886年、ベイ・サホールに、1887年、ヨルダンのサルトに共同体を作った。1887年、会則の認可を得た。1889年、ナプスに派遣された際、黄熱に冒され、エルサレムに戻った。1890年、ドミニコ会第三会員となった。後、エンカレムに孤児院を創立。1927年、帰天した。

 

・聖マリア・ディ・ジェズ クロチフィッソ(アベリン1846-ベツレヘム1878)

本名をマリア(ミリアム)・ボーアルディといい、ナザレに近い村の、アラブ人のメルキト典礼東方カトリック教徒の家に生まれた。幼くして両親を失い、叔父に養女として引き取られるも、13歳の時、周囲がまとめた結婚を拒否。同時期、イスラム教徒から改宗を迫られ、それを拒絶したために刀で喉を切られ、深い傷を負ったが、奇跡的に命を取り留めた。彼女は自分が助かったのは聖母のおかげであると信じていた。叔父の家を離れ、アレクサンドリア、ベイルート、エルサレムなどで貧しい家の女中として働き、聖墳墓の前で貞潔の誓願をたてた。17歳で、仕えていたシリア人の家族と共にフランスのマルセイユに渡った。神からの確かな召し出しを感じ、御出現の聖ヨセフ修道女会に志願者として入会。読み書きができなかったため、洗濯や炊事に専念していたが、度重なる幻視や恍惚、聖痕現象などにより、同会から遠ざけられた。1867年、ピレネー地方のポーのカルメル会に入り、1867年、着衣し、マリア・ディ・ジェズ クロチフィッソ(十字架のイエスのマリア)となった。1870年、他の会員と共にインドのマンガロールに最初のカルメル修道院創立のために派遣された。ここでも彼女の上に様々な神秘現象は続いた。1872年、ポーの修道院に戻り、謙遜な仕事に就いた。主がベツレヘムにおけるカルメル会修道院の設立を望んでおられると長上に告げ、教皇ピオ9世自身の許可を得て、1875年、8人の仲間たちと聖地へ向かい、翌年、共同体が完成した。非識字であったが、神との深い霊的対話に養われ、人々に明快な助言や神学的説明を与えることができた。1878年、ベツレヘムで帰天した。








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