2014-10-10 20:14:53

教皇フランシスコ: 心を清める伝統的手段「良心の究明」(2014.10.10)


心の中に悪を入れないための伝統的手段として素晴らしい方法があります「良心の究明」です。10月10日サンタ・マルタ館のチャペルでのミサの説教で教皇フランシスコは、信者たちに心を絶えず清く保つためにこの効果ある手段をしばしば実践するよう勧められた。
教皇説教は次の通り。
「今日のミサの福音朗読は悪魔がいつも戻ってきてわたしたちを絶えず悪の道に誘惑しようとしていることを語っています。悪魔はこのことに関して大変忍耐強いやからです。わたしたちの霊魂を正道からはずすことを決して諦めようとはしません。
荒野でイエスは悪魔から試みられたと福音書は言っています。その後ルカの福音書は悪魔がしばらくイエスから離れていったとあります。しかしイエスの生涯中悪魔は何回も戻ってきています。ご受難のときも、十字架上まで悪魔をイエスを罠にかけようと試みています。
十字架上のイエスに言います「もしあなたが神の子なら降りてこい降りてこい、そうすればわたしたちも信じるだろう」と。誰もがこの言葉の強さを知っています。「あなたは本当に出来るのかい、出来るならならやって見せごらん。やっぱり出来ないではないか」
他の霊が入ることのないように、聖霊がお住まいになるわたしたちの心を常に守る必要があります。家に鍵をかけてしっかりと守るように、心をも守らなければなりません。護衛兵がいつでも警戒しているように、自分の心を守らなければなりません。どれだけ簡単にわたしたちの心に中に悪い考えや悪い意向、嫉妬や妬みが入り込むことでしょうか。沢山の悪が入ってきます。一体誰が心の扉を開けてしまったのでしょうか。どこから入り込むのでしょうか。もしわたしたち自身がよく注意していないなら、わたしたちの心は誰もが入り込むことの出来る広場になってしまいます。 喧騒に覆われた広場のような心になってしまいます。もうそこにはイエスがわたしたちに語りかけることの出来る静けさも、わたしたちがイエスの言葉に耳を傾ける余裕すらなくなってしまいます。
イエスはまたこうも言います、わたしと一緒に集めない者は散らすのである。何か変だとは思いませんか。集めるという言葉は集中すると言うことに通じます。心を集中する、潜心するということです。心をしずめて集中すると何が起こるかわたしたちは知っています。これこそ教会の中で昔からつたわっている伝統的な実践「良心の究明」です。夜、寝に着く前に静かに一人になって自分自身の心に問いかけることです。今日一日わたしの心に何が起こったでしょうか。何をしたでしょうか。もしわたしたちがこのように実践しないなら、わたしたちは自分の心を十分に守りきることは出来ません。
「良心の究明」は聖霊がお住まいになるわたしたちの心を守るための恵みです。
イエスははっきりと言っています。悪魔はいつもまた戻ってきます。.生涯の終わりにも。イエスはわたしたち一人ひとりに悪魔がわたしたちの心の中にはいりこまないように守るための手本を示してくれます。
絶えず警戒して心を集中すること、すなわち一日の終わりに神の前で自分自身の前で心を静めて反省する沈黙の時間を持つことです。今日わたしの心の中で何が起こったでしょうか。誰かわたしの知らない者が入り込みはしなったでしょうか。鍵はちゃんとかかっているのでしょうか。
こうすることによってわたしたちの心は多くの悪意からまた狡猾極まりない悪魔から守られるでしょう。








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