2014-05-15 18:41:07

教皇一般謁見・カテケーシス・聖霊の賜物④「勇気」(2014.5.14)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

これまでのカテケーシスでは、聖霊の最初の三つの賜物「上智、聡明、賢慮」について考察しました。

これらの賜物は、わたしたちを神との親しさ、交わりの中に導き入れ、神の愛のご計画を観想させ、わたしたちの選択を神の御心に合うものとします。わたしたちが神の愛に応え、神に従おうと決心する時、自分の弱さや限界、狭さを体験するものです。そうした時、聖霊によって素晴らしい賜物「勇気」をもってわたしたちに近づき、弱さにおいてわたしたちを支えてくださるのは、これもまた神ご自身です。

1.「勇気」という賜物の重要さを理解させてくれるイエスのたとえ話があります。一人の種蒔き人が種子を蒔きにでかけます。しかし、蒔かれた種子がすべて同じように実を結ぶわけではありません。道端に落ちた種子は小鳥たちに食べられてしまいます。石だらけの土地や藪に落ちた種子はすぐに照り付ける太陽で枯れてしまったり、茨に覆われて実を結ぶことができません。ただ良い土地に落ちたものだけが育ち、そして実を結ぶのです(マルコ 4,3-9 // マタイ 13,3-9 // ルカ 8,4-8)。イエス自身が弟子たちに説明しているように、この種を蒔く人は、み言葉の種を豊かに蒔かれる天の御父です。しかし、その蒔かれた種子は、しばしばわたしたちの乾ききった心に出会います。そして、たとえ受け入れられたとしても、不毛のままに留まる危険があります。しかし、聖霊はその「勇気」の賜物をもって、神のみ言葉の成長を妨げるわたしたちの心の土地を、主のみ言葉を喜びの中に実行できるよう、無気力や不安やすべての怖れから解放してくれるのです。

2.試練の時や究極の状況の中で、「勇気」の賜物が特別で模範的な働きを見せる時があります。自分自身や愛する人々の生活を揺さぶる非常に苦しく困難な体験に直面している人々が置かれた状態です。教会は、主とその福音にあくまでも忠実であるために自らの生命を与えることもいとわなかった多くの兄弟姉妹たちの証しで輝いています。今日でも多くの国々で、その信仰を証しするために深い確信と平安をもって大きな犠牲にも耐え抜くたくさんのキリスト者たちが存在します。このことはわたしたちにいつも深い感動を呼び起こします。それがわたしたちの人生で最も困難な時にも勇気と信頼を注いでくれる聖霊の働きでないとしたら、人間的な観点からは説明できないことです。

3.しかしながら、「勇気」の賜物は、ただある種の機会や特別な状態にだけ必要であると言うわけではありません。この賜物は日常的な聖性の中に、わたしたちのキリスト者としての存在のすべてにいきわたるべきものです。事実、聖霊は毎日、主はわたしたちのすぐそばにおられ、わたしたちを支え、わたしたちの中にその力と平和を注いでくれると感じさせてくれるのです。しかし、「勇気」の賜物を得るためは、わたしたちの心の謙遜が必要です。そうすれば「わたしに力を与えてくれるお方において、わたしは何でもできる」と聖パウロと共に言うことができるのです (フィリピ 4,13)。

親愛なる友人の皆さん、時々、わたしたちは生活の試練や疲れを前に気落ちしたり、怠惰に陥ったりすることがあります。このような時、くじけないようにしましょう。この「勇気」の賜物をもって、わたしたちの心を元気付け、わたしたちの生活に新たな力を、イエスに従う歩みに熱意を与えてくれるよう聖霊に願い求めましょう。








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