2014-05-12 19:02:21

教皇ヨハネ・パウロ2世・略歴


教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヨゼフ・ボイティワ)は、1920年5月18日、ポーランドのワドビチェに、父親カロル・ボイティワ(職業軍人)、母親エミリア・カツォルブスカ(教師)の次男として生まれた。

8歳の時、母を、3年後には兄エドモンド(医師)を失い、父によって育てられた。9歳で初聖体、18歳で堅信を受けた。

ワドビチェのマルチン・ワドビタ高校卒業後、1938年、クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻した。しかし、39年、ポーランドにドイツ軍が侵攻し、大学は閉鎖されてしまった。さらに1941年には父が他界し、すべての身寄りを失った。

大学閉鎖後、生活を支えるため、またドイツへ連行されるのを避けるために、1940年から44年まで、最初は石切り場、次にソルヴェイ化学工場で働いた。

1942年から司祭職への召命を感じ、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教がひそかに開いていた ゛地下神学校″に入る。この頃、一方で、演劇活動に打ち込み、地下演劇集団「ラプソディコ劇団」にて指導的な役割を果たしていた。

戦後、再開したクラクフの大神学院とヤゲロニカ大学神学部で勉学を続け、1946年11月1日、サピエーハ大司教によって司祭に叙階された。

同年、ローマのアンジェリクム大学に派遣され、1948年、神学博士号取得。論文のテーマは「十字架の聖ヨハネの著作における信仰」。ローマでの神学研修の休暇中、フランス、ベルギー、オランダなどのポーランド人移民のための司牧に従事した。

同年、スターリン体制に支配された祖国に戻り、クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、その後、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、1951年まで大学生担当司祭を務めた。

この間に哲学、神学の勉学を再開し、1953年、ルブリン大学に、論文「マックス・シューラーの倫理体系によるキリスト教倫理構築の可能性」を提出。

後、クラクフ大神学校、および、ルブリン大学神学部で倫理神学教授として教鞭を取った。

1958年7月4日、教皇ピオ12世により、クラクフ補佐司教に任命された。同年9月28日、クラクフ司教座大聖堂にて、エウジェニウス・バジアク大司教から司教に叙階された、38歳で、ポーランドで一番若い司教として、教会と政府の対立の中、困難な司牧の使命を受けることになった。

第二バチカン公会議(1962-65年)に定期的に出席、『現代世界憲章、ガウディウム・エト・スペス』編纂において、重要な役割を果たした。

64年にパウロ六世教皇によってクラクフ大司教に、67年1月13日には枢機卿に任命された。同年6月26日枢機卿就任。枢機卿時代、5つの世界代表司教会議(シノドス)に参加している。

1978年10月16日、ヨハネ・パウロ1世帰天後の教皇選挙(コンクラーベ)で、第264代目のローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ2世となった。同月22日に着座し、その教皇職を開始。その在位は26年5ヶ月17日に及ぶものとなった。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、「空飛ぶ教皇」と言われたとおり、在位中、数多い旅行を行った。

全世界の教会の牧者、平和の使者として104の国外司牧旅行(イタリアを除く)を遂行、127ヶ国を訪問した。1982年2月、第9回目の海外訪問中に日本を訪れ、東京・広島・長崎に赴いた。

イタリア国内司牧訪問は146回にわたる。また、ローマ司教として、現在332あるローマの小教区のうち、317小教区を訪れた。

在位中、14の回勅、15の使徒的勧告、11の使徒憲章、45の使徒的書簡を発表した。

著書としては、『希望のかなたへ』(1994年10月)、『恵みと神秘・司祭叙階金祝記念に際して』(1996年11月)、『詩-黙想、ローマ三部作』(2003年3月)、『立ちなさい、さあ行こう』(2004年5月)、『記憶とアイデンティティー』(2005年2月)の5冊がある。

ヨハネ・パウロ2世は、多くの列聖・列福を通して現代世界に聖性の模範を示した。51の列聖式により、482人の聖人を、また147の列福式を行い、1338人の福者を宣言している。さらに教皇は、幼いイエスの聖テレジアを教会博士とした。

1978年より、9つの枢機卿会議を召集、231人の枢機卿(加えて1名のインペクトレ・事情により名を伏せた枢機卿)を任命。6つの枢機卿総会を開催した。

1978年から2001年までの間に、15回の世界代表司教会議(シノドス)を召集した。

1981年5月13日、聖ペトロ広場で銃撃され、重傷を負った。その日は「ファティマの聖母」の日であったが、聖母に深い信心を捧げる教皇は、聖母の手によって救われたことに感謝していた。長い回復までの道のりの後、新しい命を得た自覚から、これまで以上の熱意を持って司牧に励んだ。

ラテン教会と東方教会の教会法の改訂を行ない、『カトリック教会のカテキズム』を編纂・発布。

「贖いの年」「マリアの年」「聖体の年」の特別年を開催し、信者の霊的刷新を促したほか、紀元2000年の「大聖年」を祝い、教会の未来を示した。

また、青少年の司牧に熱心に取り組んだ教皇は、1985年、国連の国際青年年に向けてメッセージを発表。その翌年、「世界青年の日」を制定した。

ヨハネ・パウロ2世はその在位中、非常に多くの人々との出会いを持った。
1160回を越える水曜日の教皇一般謁見には、のべ1千7百60万人以上の巡礼者が参加した。紀元2000年の大聖年中だけでも、8百万人以上の巡礼者が教皇行事に参列している。
各国政府要人との出会いとしては、国家元首らの公式訪問は38回、会見は738回。首相らとの会見は、246回に及んだ。

2005年4月2日、復活節中の「神のいつくしみの主日」前夜に逝去。84歳であった。

ヨハネ・パウロ2世は、長年にわたる協力者であり、後任の教皇となったベネディクト16世によって、2011年5月1日、列福された。








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