2014-04-27 11:27:37

聖ヨハネ23世教皇・略歴


教皇ヨハネ23世、(アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ)は、1881年11月25日、北イタリア・ベルガモのソット・イル・モンテに、13人兄弟の4番目として生まれた。

洗礼の代父である信仰篤い大叔父の影響と、小教区司祭の良き指導のもとに育った。1889年、堅信と初聖体を受けた。アンジェロ少年は、幼い頃から司祭職への夢を抱き、地元の司祭たちの助けを受けながらラテン語などを勉強。1892年、ベルガモの神学校に入学した。神学校時代の14歳から書き始めた信仰の記録「魂の日記」は、生涯最後の日々まで続けられることになる。

1900年、奨学金を得てローマに派遣され、1901年から1905年まで教皇庁立アポリナーレ神学院で勉強。この間、1年の軍隊生活をおくっている。

1904年8月10日、22歳の若さで、ローマのサンタ・マリア・モンテ・サント教会で司祭に叙階された。

1905年、アンジェロ神父は、ベルガモの新司教ジャコモ・マリア・ラディニ・テデスキ師の秘書となり、1914年の同司教の死まで、司牧訪問や教区シノドスなどの教会活動を間近に体験しながら、カトリック・アクションの指導や教会系新聞への協力、神学校での教職を務めるなど、教区司祭として充実した時を過ごした。

第一次世界大戦勃発の翌年、1915年、イタリア戦線の始まりにより、アンジェロ神父も招集を受け、最初は衛生兵として、後、従軍司祭として軍の病院に配置され、そこで戦争がもたらすものを目の当たりにした。1919年には神学校の霊的指導者となった。

1921年、教皇ベネディクト15世在位下のバチカンに呼ばれ、イタリアの福音宣教事業評議会の会長として、イタリア各地の教区を訪問、教区の宣教を促した。

1925年、教皇ピオ11世よりブルガリアの教皇使節に任命される。同年ローマで司教叙階。司教モットーに「従順と平和」を選んだが、それは生涯を通じた生き方そのものであった。

ブルガリアに教皇使節として1934年まで滞在、この間カトリック共同体を励ましながら、他のキリスト教教会との関係構築に努め、地震災害などの人道支援にもあたった。

1935年、トルコとギリシャの教皇使節に任命された。共和国となって間もないトルコで、カトリック共同体への司牧と、正教会、イスラム教など諸宗教との対話に尽くした。第2次大戦が始まってからは、戦闘で荒廃したギリシャに移り、戦争捕虜の消息を伝えたり、ユダヤ人の救出のために教皇使節の通行許可証を利用したりした。

1944年、教皇ピオ12世によってパリに教皇大使として派遣された。世界大戦の終盤、そして戦後、戦争捕虜のために献身しながら、フランスの教会の再興を見守った。

1953年、枢機卿に任命されると共に、ベネチア総大司教として着座。人生の後半に再び教区での司牧を通して、人々の魂の救済に直接携わることに喜びを感じていた。

1958年10月28日、ピオ12世の後を継いで、教皇に選出され、ヨハネ23世を名乗った。

4年と7ヶ月の短い在位中、老齢の教皇は燃えるようなエネルギーを教会の刷新に注いだ。

1962年10月、第2バチカン公会議を開幕、教会の伝統的な教理を守りながら、時代に照らした教会生活の刷新を考察するよう招き、教会の改革、新しい福音宣教のあり方に巨大な足跡を残した。

ヨハネ23世は、激動する東西冷戦時代に、全人類の平和を訴えつづけた。回勅「地上に平和を」が発表されたのは、1963年4月11日、ベルリンの壁が築かれてから2年後、また、キューバ危機勃発の6ヶ月前のことであった。この中でヨハネ23世は、永続的な平和を築くための基礎として「真理・正義・愛・自由」と言う4本の柱を挙げ、人類の平和の実現に向けての積極的な努力を善意あるすべての人々に呼びかけている。

「パパ・ブオーノ(善良な教皇)」と呼ばれたヨハネ23世は、大らかな優しさ、謙遜な人柄で知られた。ローマ司教として人々へのより直接的な司牧に取り組み、信徒はもとより、他のキリスト教教会や、諸宗教の代表者、異なる考え方の人々とも人間的に触れ合い、よき父、牧者として、世界中の多くの人々の心を開いた。

第2バチカン公会議も半ばの1963年6月3日、聖霊降臨の日に帰天した。

2000年9月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福。

2014年4月27日、教皇フランシスコによって列聖された。









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