2014-02-19 14:42:23

教皇一般謁見・カテケーシス・聖体の秘跡について②(2014.2.12)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

先週のカテケーシスでは、聖体の秘跡をテーマに、聖体がキリストの過ぎ越しの神秘であり、わたしたちのために苦しみ、死に、そして復活されたイエスとの実際の交わりであるという観点から考察しました。今日は聖体の秘跡をめぐり、いくつかの質問をしてみたいと思います。

わたしたちは聖体の秘跡を具体的にどのように生きているでしょうか。日曜日にミサにいく時、このミサをどのように生きているでしょうか。ミサはわたしたちにとって一体何でしょうか。単なる祝日の一つでしょうか。ただの伝統でしょうか。 単なる義務の遂行でしょうか。それとも何かもっと優れた何かであるのでしょうか。わたしたちを養うために主が残してくれたものを記念することは、わたしたちの心の奥深くと存在に実際的な強い影響を与えます。

わたしたちがどのように聖体の秘跡を生きているかを示す、大変具体的な二つのしるしがあります。このしるしはわたしたちが聖体の秘跡をよく生きているか、あるいはあまりよく生きていないかを示します。

最初のしるしは、わたしたちが他の人々をどのように見、また考えるかです。聖体の秘跡において、キリストはいつも新たに御自分を十字架上で犠牲とします。キリストの全生涯は、愛のために自分自身をすべて他者に与え尽くすことでした。ですから、キリストは弟子たちとまた人々と共にいることを愛されたのです。これはキリストにとって、彼らの望み、問題、彼らの心やその生活を乱していたことの共有を意味していました。

わたしたちがミサにあずかる時、いろいろな人々、若者、お年寄り、子どもたち、貧しい人々、豊かな人々、同国人、外国人、家族と一緒にいる人々、あるいは孤独な人々に出会います。今、わたしが与っているミサは、これらすべての人々をほんとうに自分の兄弟姉妹としてわたしに感じさせているでしょうか。わたしの中に、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く能力を増しているでしょうか。わたしを貧しい人々や、病者、疎外された人々の方に向けているでしょうか。彼らの中にイエスの御顔を認める助けになっているでしょうか。ご聖体のうちにイエスを愛し、その受難と復活を共にするために皆ミサに行っているでしょうか。 イエスが望んでいる通りに、最も貧しいこれらの兄弟姉妹たちを愛しているでしょうか。

例えば、この数日間、ローマで大雨によるたくさんの被害を、また世界経済危機のために多くの人々が仕事を失い、その結果をこうむっている苦しみを目にしました。わたし自身に問います。皆さんもそれぞれ自問してみてください。ミサに行く私は、この現実を一体どのように生きているのでしょうか。彼らを助けようと心配していますか。このような問題を抱えている人々のために祈り、彼らに近づこうとしていますか。あるいはわたしはこれらのことに無関心ではありませんか。

多分様々な無駄話に身を費やしているのではないでしょうか。誰がどんな服装をしていたとか、いないとか、まったくの無駄話に陥ってはいないでしょうか。ミサの後、時々こんな話で盛り上がります。こんなことはしてはいけません。
わたしたちは病気や問題を抱え苦しんでいる、わたしたちの兄弟姉妹のことを心配しなければなりません。今日、ローマでもこのような問題を抱える兄弟たちのことを考えるのはよいことです。大雨による被害を受けた人々、仕事や社会問題により苦しみを受けている人々を心にかけるのはよいことです。聖体において拝領するイエスご自身に、わたしたちをまた彼らを助けてくれるよう祈りましょう。

二つ目のしるしも大変重要です。
それは自分が赦されていることを感じ、また自分も人を赦す備えがあることを感じる恵みです。時々、人は次のような疑問を持ちます。「どうして教会に行かなければならないのでしょうか。しばしばごミサに与るといっても、その人だって他の人々と同じように罪びとではないでしょうか」。このようなことを何回聞いたことでしょう。

事実、聖体の秘跡に与る人は、自分が他の人々よりも善いから、あるいは善いと思われたいからそうするのではありません。まさしく神の憐れみによって抱かれ、生まれ変わり、イエス・キリストにおいて肉となる必要を自ら認めているからなのです。

神の憐れみが自分には必要だと感じない人、自分を罪びとだと感じない人は、ミサに行かないほうがいいでしょう。わたしたちはミサに行きます。なぜなら自分自身が罪びとだと感じているからであり、イエスの贖いに参与し、神の赦しを得たいからです。

わたしたちがミサの始めに唱える「告白の祈り」は、単なる形式ではありません。本物の痛悔の祈りです。わたしは罪びとです。わたしはそれを告白します。こうしてミサは始まるのです。イエスの最後の晩餐は、彼が「裏切られたその晩に」行われたことを忘れないようにしましょう (1コリント 11,23)。

わたしたちが捧げ、その周りに集う、あのパンと葡萄酒において、わたしたちの罪の赦しのためにキリストの身体と血の奉献が毎回新たにされます。ですから、わたしたちは罪びととして謙遜な気持ちをもって、ミサに行かなければなりません。こうして主はわたしたちを和解させてくださるのです。これは主イエスの犠牲の最も深遠な意味を、最もよく要約しています。そして、わたしたちの心を兄弟たちを赦すことに、また和解に向けて広げてくれるのです。

最後のしるしは、聖体祭儀とわたしたちのキリスト教共同体の生活との関係から導き出されます。ミサはわたしたちが実行する何かではなく、またわたしたちがイエスの行いと言葉を単に記念するものでもないことをいつも念頭に置かねばなりません。そうではなく、これはまさしくキリストご自身の行為です。行い、そして祭壇上に実際におられるのは、キリストご自身です。実存し、その言葉とご自身の生命をもってわたしたちを養うために、わたしたちをご自分の周りに集められるキリストの奉献です。これはまさしく教会の本質、使命そのものが、聖体から溢れ出ることを示しています。

そこで、いつも注意していなければなりません。ミサの外的な捧げ方が完全で誠に美しいものであり、さらにそれがわたしたちをイエス・キリストとの出会いに導くものでなければ、わたしたちの心にも生活にも何ももたらさない危険があります。キリストはミサを通して、わたしたちの生活に入り、それを恵みで満たすことを望まれます。こうしてキリスト教共同体の中で、典礼は実際に生きたものとなるのです 。

親愛なる友人の皆さん、ヨハネの福音が伝えるキリストの言葉を考えながら、心は信頼と希望で満たされます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の生命を持つ。わたしは彼を終わりの日によみがえらせるだろう」(ヨハネ 6,54)。

信仰、祈り、赦し、償い、共同体的な喜びや、必要に迫られている人々への配慮の精神をもって、また、主は約束されたこと、永遠の生命を与えるとの約束を必ず実現されるとの確信の中に、聖体の秘跡を具体的に生きましょう。アーメン。








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