2013-07-11 18:19:55

「アダムよ、どこにいるのか?」「おまえの兄弟はどこにいるのか?」ランペドゥーサ島での教皇ミサ説教


教皇フランシスコは、7月8日、司牧訪問されたイタリア・シチリア州のランペドゥーサ島で、移民たちとお会いになり、住民らとミサを捧げられた。

教皇のミサ中の説教は以下のとおり。

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海で死亡の移民たち、希望への道だったその船は、死への道だった。新聞の見出しにはこう書かれていたのです!数週間前、このニュースに接した時、残念ながら同様のニュースが何度も繰り返されていますが、思いは絶えずそこに戻り、苦しみを伴う心の棘のように感じられました。そこでわたしは今日ここに来て祈る必要を感じました。それは精神的に寄添うということだけでなく、このようなことが二度と起きないようにと、わたしたちの意識を呼び覚ますためでもありました。お願いです。このようなことが繰り返されてはなりません!

しかし、初めに、よりよい何かを求めて旅の身にある人々への関心を忘れない、ランペドゥーサとリノーサの住民の皆さん、様々な団体や、ボランティア、公安関係者に心からの感謝と励ましをおくりたいと思います。皆さんは小さくても、連帯の模範を与える存在です。

今日ここにいる親愛なるイスラム教徒の移民の皆さんに挨拶をおくりたいと思います。今晩からラマダンの断食に入る皆さんに豊かな精神的恵みがありますように。教会は、皆さんと皆さんの家族のためのより尊厳ある生活の追求に寄添うものです。

今朝わたしたちが聴いた御言葉の光のもとに、皆の良心を揺さぶり、ある種の態度を具体的に改めるように招く、いくつかの言葉を示したいと思います。

「アダムよ、どこにいるのか?」人が罪を犯した後、神が最初に人に問いかけた言葉は、「アダムよ、どこにいるのか?」というものでした。アダムは道を迷った人間です。人は、被造物の中でその立場を見失い、力ある者となり、すべてを支配し、神になれると思い込んだのです。調和は壊され、人間は過ちを犯し、そしてこれは他の関係においても繰り返されました。他人はもう愛するべき兄弟ではなく、単に自分の人生、自分の幸福を邪魔する存在になってしまったのです。

そこで神は二つ目の問いを差し向けます。「カインよ、おまえの兄弟はどこにいるのか?」権力を持つ夢、神のように偉大になる、いや神そのものとなる夢は、過ちの連鎖を引き起こしました。それは死の連鎖であり、兄弟の血を流すまでに至ったのです。神のこの二つの問いは、今日もあらんかぎりの力をもって響いてきます。わたしたちの多くは、それはわたしも含めてですが、道を見失い、自分たちが生きている世界にもう関心を持たず、神が皆のために創造された被造物をもう守ることもせず、お互いを守ることさえもできなくなっています。この道を見失ったことの混乱は世界規模で広がり、わたしたちが目にするとおりの悲劇につながったのです。

「おまえの兄弟はどこにいるのか?」彼の血がわたしに向かって叫んでいると、神は言われます。この問いは他人に向けられた問いではありません。わたしに、あなたに、わたしたち一人ひとりに向けられた問いなのです。あの兄弟姉妹たちは、厳しい状況から抜け出し、わずかな安らぎと平和を求めようとしていました。彼らは自分と家族のためによりよい場所を探していたにも関わらず、彼らが行きついたのは死でした。こうしたものを求める人たちは何度、理解や受け入れや連帯を拒否されてきたことでしょう。彼らの声は神に向かって叫んでいます。

ランペドゥーサの住民の皆さん、皆さんの連帯にもう一度感謝を申し上げます。わたしは先ほどこうした兄弟たちの一人の話を聴きました。ここにたどり着く前に、難民を取引する人々の手から手に渡されたと言っていました。彼らは人の貧しさから搾取する者たちです。こうした者たちにとって、他の人の貧しさは儲けの元になるのです。彼らはいったいどれほどの苦しみを味わったことでしょう。中にはたどり着けない人たちもいたのです。

「おまえの兄弟はどこにいるのか?」この血の責任は誰にあるのか?スペインの劇作家ロペ・デ・ヴェガの戯曲にこういう作品があります。フエンテオベフーナの住民たちが独裁者であった長官を、誰が殺したのか分からないような方法で殺害します。王の裁判官が「誰が長官を殺したのか?」と聞くと、皆は「フエンテオベフーナでございます」と答えるのです。皆であって、誰でもないのです。

今日もこの問いは力強く響きます。この兄弟姉妹たちの血の責任は誰にあるのか?誰にもない!わたしたちは皆こう答えるでしょう。わたしではありません。わたしは関係ありません。たぶん誰かのせいでしょうが、わたしであるはずがありません、と。しかし、神はわたしたち一人ひとりに問うのです。「わたしに叫ぶこの兄弟姉妹たちの血はどこにあるのか?」と。

今日、世界で誰一人、このことに関して責任を感じる人はいないでしょう。わたしたちは兄弟愛的な責任の意味を見失ってしまったのです。わたしたちはイエスが「善いサマリア人」のたとえで話しておられた偽善的な祭司の態度に陥っているのです。道端で瀕死の兄弟を見たとします。たぶんわたしたちは「かわいそうに」と思うでしょう。そしてそのまま自分の道を進んでいってしまうでしょう。われわれの役目ではないから、というこの一言で自分を納得させるのです。こうしてわたしたちは安心して、良心の咎めも感じないのです!

幸福の文化は、われわれの考えを自分自身に向けさせ、他人の叫びに無感覚にさせてしまいます。わたしたちを石鹸のあぶくのような世界に生きさせますが、そのあぶくはきれいであっても、虚しい、一時的な幻想にすぎず、わたしたちを他人に無関心にさせるどころか、無関心のグローバル化をもたらしました。このグローバル化した世界で、わたしたちは無関心のグローバル化に陥ったのです。わたしたちは他の人の苦しみに慣れてしまい、それは自分には関係もない、興味もない、他人事と思うようになってしまいました。

マンゾーニの作品の登場人物「インノミナート」が思い起こされます。無関心のグローバル化は、わたしたち皆を「インノミナーティ(匿名の、名前がないの意)」にしてしまいました。それは名前も、顔もない責任者たちです。「アダムよ、どこにいるのか?」「おまえの兄弟はどこにいるのか」人類の歴史の始まりに神が向けた二つの問いは、現代のすべての人に、わたしたちにも向けられているのです。

しかし、わたしはここで三つ目の問いを示したいと思うのです。「わたしたちの誰がこのような出来事のために泣いたでしょうか?」誰がこれらの兄弟姉妹のために泣いたでしょうか?誰が船の上にいたこれらの人々のために泣いたでしょうか?誰が子どもを腕に抱いていた若い母親たちのために、家族を支えようと何かを求めていた男の人たちのために泣いたでしょうか?

わたしたちは泣く経験、誰かと共に苦しむ経験を忘れた社会に生きています。無関心のグローバル化はわたしたちから泣く能力を取り上げてしまいました。福音書の中に、わたしたちは人々の叫びや涙や嘆きを聞きました。「ラケルは子どもたちのことで泣く、子どもたちがもういないから」(マタイ2,18)。ヘロデは石鹸のあぶくのような自分の繁栄を守るために、死を撒き散らしました。そして、それは繰り返され続けています。

わたしたちの心にも残っているヘロデを消してくださるよう、主に願いましょう。わたしたちの無関心について、こうした悲劇を生んでいる、世の中の、わたしたちの中の、匿名のうちに社会経済を動かす人々の中の冷酷さについて泣く恵みを主に祈りましょう。「誰が泣いたのか?」誰が今日世界で泣いたでしょうか?

主よ、この典礼、悔い改めの典礼の中で、多くの兄弟姉妹に対する無関心を赦してくださるよう祈ります。父よ、自分の幸せの中にくつろぎ、その中に閉じこもり、心を無感覚にした者たちをお赦しください。彼らの世界的レベルの決定をもってこのような悲劇を生む状況を作った人々をお赦しください。主よ、お赦しください!

主よ、わたしたちに今日もあなたの問いが響きます。「アダムよ、どこにいるのか?」「おまえの兄弟はどこにいるのか?」と。









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